ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
──ヨハネによる福音書 2:3−4
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この聖書の箇所では、イエスとその母マリアが出席した結婚式の最中に、用意したお酒が足りないというハプニングが起こっています。
結婚式の宴会の途中に葡萄酒が足りなくなるということは、由々しき事態でした。
特にその宴会を開いた主人である新郎の面目は丸つぶれ、その家は人々からの信用を損なうかもしれないという一大事だったのです。
そのことに気付いた母マリアは、イエスに助けを求めます。
神の子である息子イエスなら、きっとどうにかしてくれる、そう信じて「葡萄酒がなくなりました」と伝えたのです。
でもその願いを、イエスはにべもなく断るのです。「わたしとどんな関係があるんですか?」
どうしてイエスはこのような冷たい返答をされたのでしょうか。
私たちが聖書を読む限り、少なくともイエス・キリストというお方は、キリスト(救い主)という名前の通りに、助けを求める人の手を振り払うようなお方ではないはずです。
優しく、誰一人見捨てない、そういう愛に満ちた神様であることを、聖書は繰り返し語っているからです。
なぜこのようなイエスがこのような返答をされたのでしょうか。
それは、続く言葉にその答えがあるのです──「わたしの時はまだ来ていません。」
私たちが神様に祈るときのことを思い出てほしいと思います。
きっと必ずその中には、「〜してください」という願いが一つは入っているのではないでしょうか。
神様に何かをしてほしいと願うこと自体は、決して悪いことではありません。
むしろすべての祈りが聞き届けられると信じて祈りなさいとイエスは私たちに教えている(ヨハネ14:13)からです。
でも、私たちの願いが切羽詰まっていればいるほど、それが祈っても叶わないと、「どうして神様は祈りを叶えてくれないのだろう」「神様は気まぐれで不平等ではないか」という思いが湧き上がってくるのではないでしょうか。
それが人の心というものなのです。
そのように祈る私たちは、いったい神様をどのような相手だと思っているのでしょうか。
もし私たちが願ったことが今すぐに、願ったとおりにすべて叶えられたとしたら。きっと神様は、私たちの願いを叶えるだけの、単なる便利な道具に成り下がってしまうことでしょう。
だからこそイエスはここで、敢えてマリアの願いを断ることによって、祈りとは何かを教えようとしておられたのです。
「わたしの時はまだ来ていません」──つまり、私たちが神様に願う時、その願いが聞かれるタイミングは、私たちが叶ってほしいと願っているタイミングとは違うかもしれない、ということです。
これは私たちが、友人や誰かに頼みごとをして、それを任せることと同じだと思います。
友人はあなたのことを考え、今すぐに任せられた通りに応えてくれることもあれば、もっと良いタイミングで、あなたにとって最もいい形で実現するように考えて、願った形とは違う形で応えてくれるかもしれません。
しかしそれを、「どうして願った通りに、願ったその時に応えてくれなかったのか」と言うことは、相手を信頼していないのと同じでしょう。
神様に祈り願う時にも、「きっと神様はわたしの願いに最も良い形で応えてくださる」と、神様という友に信頼して待つことが大事なのです。
私たちの目の前の世界は、自分の思い通りにいかないことばかりに感じるかもしれません。
しかしその中で、あなたのために一番良いものを、一番必要なタイミングで与えようと、準備をしてくださっている神様がおられます。
私たちが祈るときには、そのことをまず、心に留めたいと思うのです。