シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
──ヨハネによる福音書21:3-4
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イエスの一番弟子に、シモン・ペトロという人がいます。
この人は元々漁師であったと言われています。ガリラヤ湖で魚を捕って生計を立てていた人ですから、いわばプロの漁師でした。
その弟子たちが、復活のイエスに出会った後、漁に出かけていきます。
夜中から明け方まで一晩中、何時間もかけて頑張って網を打ったことだと思います。
しかし、朝になっても一匹も魚は捕れなかった、というのです。
私たちもこういう時があるのではないでしょうか。
一生懸命時間をかけて頑張ったのに、何の結果が得られなかった、徒労に終わるということがあります。
それどころか、失敗したり、つまづいたりして、前よりもさらにマイナスの状態で帰っていかなければならないということだってあるかもしれません。
でも、そうやって徒労に終わったかのように見える弟子たちを、岸辺で待ってくださっていた人がいました。
それは、復活したイエス・キリストであった、と聖書は記しています。
弟子たちは復活のイエスに再び出会い、イエスの呼びかけの通りにもう一度網を打つと、多くの魚が捕れたと続けて語られていきます。
これは、私たちのやり方がいつも間違っていて、聖書の言うとおりにすれば成果が上がる、ということを教えているのではありません。
私たちが徒労に暮れ、何も得られなかった、と思う時、それでも「本当に得られたものはなかっただろうか」と問いかけ、「きっと何か得られたものがあるのではないか」と気づきを与えてくれる神様が、私たちを待っている、ということなのです。
もしかしたら私たちの心には、失敗をすることが怖い、と思う気持ちがあるかもしれません。
大きな失敗をすることは人生がおしまいになることだ、と悩んで、家から一歩も出れなくなってしまったり、果てには自分で命を諦めてしまう人もいます。
でも、私たちはこの復活のイエスに出会った弟子たちの物語を、心のどこかで覚えていたいのです。
失敗は終わりではないし、失敗は決してマイナスでは終わらないということです。
無実の罪によって十字架で死ぬという最大級のマイナスを背負ったイエスが、そこから全人類の救いという最大級のプラスを持ち帰ってきたからです。
アメリカで自動車を普及させた起業家に、ヘンリー・フォードという人がいます。その人の言葉に、このような言葉があります。
「本当の失敗とは、失敗から何も学ばないことである」
失敗をして、無駄だった、何も得られなかったと決めるのは、あなたです。
どんなに大きな失敗をしても、人生は続いていくのです。
何度だって挑戦をして、そして失敗をしていいのです。そう信じて過ごしたいのです。
なぜならそんなあなたを赦し、次はもっと正しい道を選ぼうとするあなたの隣に立ってくださるために、イエス・キリストは復活してくださったからです。
失敗をして、そこからいったい何を学べただろうか、何を得られただろうか。──それじゃあ次は、どうしようか。
私たちがそれでも明日へと歩き続けるための力を与えてくださる神様が、いつだって私たちの人生の隣におられるのです。