運命の人


わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

──ヨハネによる福音書 15:12-13

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最近テレビで特集が組まれていた『ユイカ』というアーティストの曲を聞き始めました。
ほとんどが恋愛についての曲なのですが、その一つに「運命の人」という曲があって、その歌詞が心に残りました。

あなたの言葉を思い出した
「運命の人って二人いて、
一人目は別れのつらさを
二人目は永遠の愛を教えてくれるらしいよ」

ああ、その通りだなと思いました。運命の人と言うほど深いかかわりを持った相手であるからこそ、その別れと言うのは大変つらいものになると思います。
しかし、そのような別れがあるからこそ、その相手のことをより深く振り返る事ができるのだと思います。
深い関わりの中でかけられた一つひとつの言葉が、良くも悪くも自分の中に刻み込まれていることを思い起こすかもしれません。
冷静になれないまま勢いで投げつけてしまったひどい言葉にあとから後悔することもあるでしょうし、失って初めて、どれだけ相手が自分のことを考えてくれていたかを知らされることもあるかもしれません。

運命の人との別れというのは、ただ悲しいだけではなく、別れてもなお教えられるものがある、そういう人のことを言うのだと思います。
出会うべくして出会い、そして本当に永遠の愛を誓いあう人と出会うために、別れざるを得ない、だからこそ運命の人、と呼べる人なのかもしれません。

この歌詞を聞いたとき、私はこの関係を、聖書が語るイエス・キリストと弟子たちの関係にそっくりだなと思いました。
弟子たちはイエスを深く慕っていました。自分を救ってくれる救い主、キリストだと信じていました。
でも、その後に起こったのはそのキリストが十字架にかけられて死ぬという、別れでした。
一緒に死ぬこともできず、裏切って逃げてしまった弟子たちは、恐れの中、考えたことだろうと思います。

どうして無実のイエスが十字架刑と言う極刑に処せられて、死ななければならなかったのか?
神様の力を委ねられていたイエスがなぜ、それを受け入れていったのだろうか?
そうして、生前イエスが自分たちに語った言葉を一つ一つ思い出し、その意味を改めて考えていったことで、イエスが本当に伝えたかったことを理解していったのだと思います。

そして、イエスは復活して、弟子たちと再会をしたのです。
彼らにとって二人目の、運命の人として。イエスを裏切って、保身のために逃げ出した弟子たちを、それでも赦すことによって、弟子たちに、神様の愛に生きるという永遠の愛について、イエスは身を持って教えてくれたのです。
あなたのためなら、命だって惜しくはない。そこまで私たちを愛してくださるお方こそ、イエス・キリストであり、聖書が教える神様の心であるのです。

今日の聖書の箇所のように、生前のキリストは言われました。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
そのようにして十字架で命を捨てたからこそ、その前に命じられた言葉が生きてくるのです。
「わたしが(そうやって)あなたがたを愛したように、(あなたがたも)互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

あなたには、この人のためなら自分の命さえ惜しくはない、そう思える人はいるでしょうか。
もしそれほど愛を注げる相手をもし見つけることができたなら、それは幸せなことです。
そしてその愛を、一方向ではなく、お互いに交わしあうことができるなら、それはきっと、神様が皆さんに望んでいる関係性であると思います。
過ちを赦しあい、一緒に支えあって、成長しあうために歩んでいける相手。
そんな運命の人が、あなたにも見つかりますように。