【黙想】『キリストにならう』 第1巻第1章3


あなたに謙遜の心がなく、そのために三位一体に喜ばれないなら、三位一体について議論したところで何の益になろう。人を聖なる者正しい者とするのは、奥深い言葉ではなく、徳に満ちた生活であって、それが神の愛を呼ぶのである。私は痛悔の定義を知るよりも、むしろその心を感じたい。もしあなたが全聖書と全哲学説を知ったとしても、神への愛と恵みをもたなければ、それが何になろう。神を愛し神だけに奉仕する以外は、「空しいことの悲しさ、すべては空しい」。世間を軽んじて天の国に向かうことこそ、最高の知恵である。

──『キリストにならう』 第1巻第1章3

+黙想+

聖書の知識を学ぶことは大事なことだ。
この世にはあらゆる偽の神と教えを作り上げ、私たちのあらゆるものを奪い去ろうとする人々がいるからである。
しかし私たちが宗教において最も知るべき大事なことは、正しい知識よりも、そこに示された神の心、神がどのような眼差しで私たちをみつめ、私たちに何を願い、何を与えようとしておられるのかということだ。
愛、赦し、尊重、守り、慰め、支え、導き……それらすべての「良いもの(マタイ7:11)」を、神は私たちに与えたくて仕方がないのだ。
それは子を愛する親が、子のために全てをなげうってでも良いと考えるように。その極みがイエスという人間となってまでこの世にこられ、無実の十字架の死を受け入れられたという愛であった。

そして今なお、聖霊となって私たちの内にあり、私たちを神の愛を知るようにと働きかけ、心に呼びかけておられる。
だから私たちも、この世のあらゆるもの、目を引くもの、誘惑と欲望を引き出すもの、あらゆるものへの執着と依存を、その心と愛のゆえに遠ざけていくことを勧められるのである。

私たちにとって最も良いものは、いつだって神様が知っているのだということ、そしてそれを与えようとしておられることを信じる時、私たちはもはや、すべてのことを手に入れているのである。