したがって、はかない富を求め、それに望みを懸けるのは、空しいことである。名誉を望み、高い地位を欲するのも、空しいことである。肉の欲に従い、将来重い罰を受けるであろうことを望むのも、また空しいことである。長生きを望むばかりで、よく生きることを心がけないのも、また空しいことである。今の生活だけに心を奪われ、未来のことに備えないのも、 空しいことである。直ちに過ぎゆくものを愛し、永遠の喜びのあるところに望みを向けないのも、空しいことである。
──『キリストにならう』 第1巻第1章4
+黙想+
神はこの世から、私たちの名誉、地位、栄光、富、この世における長寿へのあらゆる努力を奪い去りはしなかった。
たとえそれを奪っても、私たちはどのような形であれ、他の者を自分よりも下に置きたがる(そして自分が優位にあると思いたがる)──罪を持っているからだ。私たちは過ぎ去った過去に囚われ、今目の前にある現実に翻弄され、何が起こるかわからない未来を恐れる。
この世の全てのものがそうであるように、ここにも良し悪しの両面がある。
「温故知新」という言葉の通りに、過去から先の未来の歩み方を教えられ、安心して歩めるのなら良い。
しかし変えられない過去にコントロールされ、未来の不安に押しつぶされそうになることを誰が望むだろうか。
あなたを愛しておられる神もまた、あなたがそのように生きることを望んではおられない。
伊達政宗もこのように言う。「この世に客としてきたと思えば、なんの苦もなし」。
私たちがこの世に生まれたのは私たち自身の努力によってではない。それなのにどうして私たちは成長するにつれ、私たち自身の努力によってこの世のすべてのものを手に入れられると思うようになるのか。手に入れたそれが永遠に所有できると思うのか。
私たちがこの世に命を受けたという最初の出来事に、「この世のすべてのものはあなたに与えられ、いずれは返さなければならないもの」と表されている。
それを忘れるとき、私たちは果てのない喪失と未知への不安に投げ出され、手にしたものを必死に握りしめる。そうであるからこそ、失われ、奪われるものに絶望と憎しみを抱くことになる。
あなたの人生はなぜ与えられたのか。そしてこの世のあらゆる富はなぜあなたの手に届くところにあるのか。
「不正にまみれた富で友達を作りなさい(ルカ16:9)」とイエスは言われる。いずれ全てのものは過ぎ去り、あなたの手から離れる。
ならば与えられたものを良いことに使おう。隣人と「共に喜び、共に泣く(ローマ12:15)」ために、与えられたものをよく用いよう。
そうすれば私たちが神の御前にたたされたとき「主人と一緒に喜んでくれ(マタイ25:21)」とイエスが言った言葉をあなたも聞くことになるだろう。