かえって満ちていく


自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

──マタイによる福音書 10:39

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藤井風と言うアーティストが昨年12月の紅白歌合戦で歌った「満ちていく」という曲があります。
この歌詞を聞いた時、これはとても宗教的な歌詞だなと思いました。

手にした瞬間に無くなる喜び
そんなものばかり追いかけては

無駄にしてた“愛”という言葉
今なら本当の意味が分かるのかな

愛される為に 愛すのは悲劇
カラカラな心にお恵みを

晴れてゆく空も 荒れてゆく空も
僕らは愛でてゆく

何もないけれど全て差し出すよ
手を放す 軽くなる 満ちてゆく

この歌詞は、私たちにとっての真理をついている言葉でもあると思うのです。
この世の中で、手にした瞬間になくなってしまうような、刹那的な喜び、楽しみはたくさんあります。
私たちの人間関係だって、一歩間違えればそのような関係になってしまうこともあるでしょう。
「どうせ今この時しか一緒にいないんだから、どう思われたっていいや」と、自分勝手になったり。
誰かを傷つけていないだろうかと考えることなく、思うままに言葉を発してしまうことがあるかもしれません。
深く愛し合う関係性を望んでも、どうせいつかは別れるんだからと相手を深く理解しようとしないことや、自分の都合の良い時ばかり相手を求めて好きになったり嫌いになったりを繰り返す、ということもあるかもしれません。
しかしそんな関わりばかりでは、私たちの心は満たされるどころかいっそう苦しい。いっそう寂しい。満たされないままなのです。

だから、イエスはこのように教えられました。
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

自分の利益ばかりを追求しようとする人は、結局はそれを失っていくのだと。
藤井風も「愛される為に 愛すのは悲劇」と言うように、愛もまた同じなのだと思います。
愛されたくて誰かに愛を注いでも、それが返ってくるとは限りません。
むしろ「何もないけれど全て差し出すよ 手を放す 軽くなる 満ちてゆく」と藤井風が歌うように、自分には何もあげられるものなどないという謙虚な気持ちに立って、それでも相手のために尽くしていくことによって、思いもかけない恵みが返ってくる、手放すことで満たされることがあるのだというのです。

そしてそれは、「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」とイエスが言われていることと響き合っています。
私たちの命、私たちが持っているすべてのものを、イエスが教えているように他者の必要に応えて捧げていくとき、私たちにはもっと豊かなものが返ってくるとイエスは教えたのです。
そしてその証として、イエスご自身がすべての人の救いのために自分の命のすべてを捧げられたとき、十字架の死に終わるのではなく、そこに復活と永遠の命が神によって与えられるという救いが明らかにされたのです。

私たちが生きているこの世界は、私たちにより多くのもの、より良いものを手に入れるようにと誘惑してきます。
しかしそのような、より多くのもの、より良いものを手に入れたいという欲望は、尽きることがありません。
つまりはずっと、欲しい欲しいという気持ちが満たされないままなのです。

自分にとって本当に手に入れるべきだと思うもの、大事にしたいものとはなんでしょうか。
自分と関係を保ってくれる友人たちを大事にすること。
誰かが困っている時にはお互い様だと助け合う心。
見返りを求めず、持っているものを分かち合っていくこと。
そうやって、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く(ローマ12:15)」ように誰かと一緒に生きていくことこそ、聖書が私たちに求めている生き方であり、本当に私たちが満たされるための生き方なのです。
何千年経っても変わることのない真理、聖書の言葉に耳を傾けながら、私たち自身の振る舞いをもう一度振り返ってみたいと思います。