「目は見るだけで満足せず、耳は聞くだけで満足しない」という言葉をしばしば思い出しなさい。あなたは地上のものへの執着から心を断ち切り、見えないものに心を移すよう努めなさい。実に、肉の声に従う者は、良心を汚し、神の恵みを失うのである。
──『キリストにならう』 第1巻第1章5
+黙想+
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(2コリント4:18)」と語られる。
私たちの肉はこの世のものであるから、この世のものを求める。
目に見えているもの、周りの隣人がみな手に入れているものを、自分も手に入れたいと望む。
しかしこの世の多くの人が希い求めるものの殆どは、夢のように過ぎ去る、いっときの喜びしか与えてはくれない。
次から次へと自分を満たしてくれるものに乗り換え続け、それに翻弄されることは、振り返ってみればどれだけ空しい時間と労力であったろうと思うことになる。
意識しなければやめられない、またすぐにでもそそのかされてしまう肉の欲、罪が自分のうちにあることを私たちは重々承知しなければならないだろう。
私たちに必要なものは、すべて神が備えてくださると聖書は言う。
それは私たちが怠惰になり、やるべきことを何一つしなくても生かされるということではない。
私たちが日々の生活を質素に営み、周りの隣人のためにと心を込めてあらゆる働きを担う、その単純でどこにでもあるような日々の中に、神は働き、私たちに思いがけない恵みを与えてくださるということである。
私たちはそれを望み願うのではなく、希望として委ねることを学びたい。
求め期待すれば、与えられなかったことに不満を感じるのが私たちの罪である。
目に見えない希望に自身を委ねる時、小さな神の恵みは大きな喜びとなって私たちの日々の中にちりばめられていることに気づくだろう。
この世界はあなたの働きだけで支えられているのではない。
あなたの目には見えない遠くの人々もまた今日も生き、働いているから世界が動いていくように、神もまた、あなたのために働き続けておられることの証だ。あなたの頬をやさしく撫でる風、ふとかけられるねぎらいと感謝の言葉。目に見えないところで誰かがあなたを思い、赦し、あるいは助けられ、また感謝をしている。
あなたは決して一人ではない。