元来、人は知ることを望んでいる。しかし神への畏れがなければ、学問知識が何の役に立つか。主に仕える質朴な農夫は、自分の救いをないがしろにして天体の運行を眺める高慢な学者より、確かに優れている。自分自身をよく知る者は、自分の惨めさを考え、人の称賛を喜ばない。もし私がこの世にあるすべてを知っても、愛徳をもたないなら、行いによって私を裁かれる神のみ前に立って、私に何の益があろう。
──『キリストにならう』 第1巻第2章1
+黙想+
人は知ろうとする生き物である。
それこそがすべての生きとし生ける生き物の中で人間だけが持つ性質であり、そしてそれは善悪の”知識”の実を食べたがゆえであるのかもしれない。
けれども失楽園の物語において語られているのは、神と同じ知識を得ながら、それを自己保身と責任転嫁のために用いてしまったということである。
ここに私たち人間の罪が現れている。
つまり罪は私たちが他者よりも自分を優先すること、せっかくの知識を知恵としてではなく「悪知恵」として使ってしまう方向性を持っている。
悔い改めと訳された「メタノイア」は本来「方向を変える」という意味を持つ言葉だ。
であるなら、方向が大切である。罪の方向に向かうのか、それとも神のみ心が示す方向へ行くのか。
神の方向とはつまり、神を知り、神を畏れ、神に仕えるということであり、前述の「イエスの生活を黙想する」こと、そしてそれに生きようとすることである。
それはただ形だけをなぞるのではなく、イエスの愛とへりくだりの実践であると教えられるのだ。
そこにこそ本当の意味での「知恵」がある。
私たちがイエスにならい、自分のためではなく目の前の人々の幸せのためにその知恵を用いるなら、きっとそれは神に祝福されうるものになろう。