兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
──ローマの信徒への手紙12:10
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いつもは雨の時に外出することはないのですが、我が子が新しく買った長靴を雨の日に履きたいとせがむので、小雨なこともあって傘をさして少し散歩に出かけることにしました。
長靴だと水たまりに飛び込むのも楽しいようで、子はずんずん進んでいきます。長靴は買いましたが、まだ子ども用の傘は買っていませんから、ちょろちょろと動き回る子の上に私が傘を差して濡れないようにする、という散歩でした。
すると、大きな水たまりを見つけた子が突然走り出し、気づいたときには私の傘をバッと抜け出していってしまいました。
笑いながら思いっきり水たまりに飛び込んだまではよかったのですが、降っている雨で服が濡れるわ、長靴の中も水でたぷたぷになってしまって、半泣きになりながら「濡れた~~」と私の傘の下に戻ってきました。
これを見て、ああ、神様と私たちの関係も同じだなと私は思ったのです。
聖書の言葉は、2000年以上前から私たち人間が生きる指針として語り継がれてきました。
しかし未だに語り継がれてきたということは、それが私たちにとって繰り返し呼び掛けられるべきことだとして、守られてこなかったということの証でもあります。
このように生きてほしいと願う神様の想いから私たちはついつい離れて生きてしまう、罪の現実があります。
それはまさに、親が濡れないようにと子どもに傘をさしていても、子どもは傘の下から飛び出し、目の前の水たまりに自ら飛び込んでいくようなものです。
私たちは時に自分勝手になったり、周りの人の気持ちよりも自分の気持ちを優先してしまうものだからです。
その結果、神様が私たちを守ろうとしていても、こっちの道が良いよと思っていても、勝手に飛び出していってしまうことが起こる──私たちが傷ついたり、迷ったり、悩んだり苦しんだりすることへと、私たちは自ら飛び込んでいってしまうのです。
そのような人間の本質を、聖書は2000年以上も前から私たちに教えているのです。
キリスト教は神様を信じる人しか救わない排他的な宗教だ、と言われたことがあります。
しかしそうではないのです。神様は私たちの生き方を強制することはありません。私たちは自分でどう生きるかを選んでよいのです。
あなた自身が自分の人生の主導権を握り、主体的に歩むことを神様は私たちに望まれるのです。
ただ神様は、私たちが生きる中で様々な選択をするとき──つまり、誰かに言葉をかけるとき、誰かに手を触れる時、誰かと共に働きを担うときに、それを選ぶ根拠として、「周りの人への愛と奉仕の心が欠けてしまわないように」と、 そっと語り掛けておられるのです。
自分が主体的に人生を歩むということは、その人生に自分が責任を持つということです。
助けてくれた人には感謝を忘れないこと。
間違ってしまったときには反省し、迷惑をかけてしまった人々にあやまること。
次は間違わないように改善策を立てる事。
それが、自分の選択に責任を持つということです。
当たり前のことと思うかもしれませんが、もし私たちが自分勝手になり、周りの人々に心を向けられていなければ、そもそも感謝も悔い改めも生まれません。
傲慢になり、失敗を人のせいにし、自分は悪くないと言い張るようになります。
私たちの周りにそんな人がいたらどうするでしょうか。きっと、その人とは関わりあいたくなくなるでしょう。
私たちがそのような態度をとるなら、自ら自分の首を絞めることになるのです。
だからイエスはただ一つのことを私たちに勧めました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」。
そして今日の聖句は、この愛するという言葉を他の言葉で言い換えて私たちに勧めています。
「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」
神様が私たちに「飛び出していってはいけないよ」とさしてくださっている傘は、他者への愛と奉仕を求める傘です。
聖書が私たちに勧める愛と奉仕とは、まさに互いに尊敬をもって関わりあうこと──相手の存在を自分と同じ人間として認め、自分を大事にするように相手を大事にし、相手の求めにも寄り添い、共に生きていこうとすることです。
私たちはその傘から飛び出していかないように、この神様からの呼びかけを心に留めて過ごしたいと思います。