立ち止まることの少ない私たちだからこそ


サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

──使徒言行録 9:9

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前回のメッセージでは、パウロという人をご紹介しました。
彼は元々ユダヤ教のエリート指導者であり、サウロという名前でした。そのためキリスト教を信じる人々を殺して回る、熱心な迫害者でした。
しかし神様はそのサウロに語りかけ、その目を見えなくしました。そして彼は、今日の聖書の箇所のように、3日3晩、目が見えず、食べも飲みもしなかった、というのです。
その後、目からうろこのようなものが落ちたパウロは、熱心なクリスチャンに変えられていきました。
いったい彼は、沈黙の3日間の中で、何を考えていたのでしょうか。

サウロは熱心なキリスト教の迫害者でした。
彼はユダヤ教を信じていた頃の自分を「非の打ち所のない者」だと言っています。
それほど完璧を求める人物ですから、迫害においても、他の人からのうわさや伝聞を聞いたからとか、誰かに命令されてやっていたことではなかったはずです。
ユダヤ教を学ぶのと同じくらい、キリスト教の弟子たちが語っていた教えを深く知ろうとしていたこともあったことでしょう。
しかしある時から、一度正しいと思って始めた迫害を止めることもできずに、走り続けてきたのです。
だからこそ、彼に与えられた3日間とは、キリスト教の教えをもう一度深く受け取る3日間、そして迫害を続ける自分自身の正しさを振り返るための3日間であったのだと思います。

私たちも、サウロがそうであったように、自分のことを振り返る時間がふと与えられるときがあると思います。
私たちがこれまでの歩みを振り返るとき、良いことも悪いこともしてきたかもしれません。
しかし、悪いこととわかっていて、それをすすんでやるような人はいません。
パウロだって、正しいことだと思ってキリスト教を迫害し続けてきたのです。
けれどもそれは本当に正しい、良いことだったのか、聖書が教える神様の心にかなうようなことであったのかと振り返ったのです。
サウロのように私たちもそうやって自分を振り返る時、かつて正しいと思ってやったことが、実はやってはいけなかったこと、失敗だったと気付かされることが、私たちの人生にも起こりうることなのではないでしょうか。

キリスト教は、私たちに完全無欠の、正しい人間になれと言っているわけではありません。
私たちの誰もが、そんな人間にはなれないのです。
誰だって間違うし、イエスの弟子たちだってそうでした。
十字架にかけられていくイエスを見捨てて、裏切って、逃げていきました。
パウロもイエスの弟子たちを熱心に迫害する過ちを犯していました。
しかしそんな弱く、間違いを犯す罪深い人々を、神様はイエス・キリストを伝える人々として選んでいったのです。

私たちは皆、間違う者なのです。
でも、そんなありのままのあなたを赦し、愛するのだとイエスは受け止めてくださるのです。
だからこそ私たちは、何度でも間違ったことを認め、受け止められるようになるのです。
ちゃんと間違いを反省し、謝ることができるような人になれるのです。
誰しも間違うことがある。
だからこそ周りの誰かが間違いを犯したときにも、それをゆるし、偏見なくその人と関わるようにと勧めるのが、キリスト教の教えなのです。

私たち皆、忙しい毎日を送っています。
いつも考えるべきことが山積みで、立ち止まることなどできない、ゆっくりと自分を振り返る時間なんて取れない──そう思うかもしれません。
しかしパウロはその振り返る時を通して人生を大きく変えられ、新しい道へと歩みだしました。
そのように、あなたも時には立ち止まり、じっくりと自分を振り返る時を取ってみてほしいと思います。
あるいはもしかしたら、強制的に手を止めさせられる、ぽっかりと空いた時間が与えられることもあるかもしれません。
その時こそ、神様から与えられた、立ち止まる時なのです。

過去は変えられません。しかし、これから歩む未来は変えられます。
もし今、私たちが迷い、悩み、立ち止まっているのなら。きっと神様はあなたに、より良い道を示そうとしておられる。
今のあなたに必要だからこそ、神様によって立ち止まらされている。そう捉えてほしいと思います。
自分を振り返り、自分の現在位置をしっかりと見つめましょう。
そうすればパウロがそうであったように、次に向かうべき一歩が示されていくはずです。