小さき者とされるとき、そこに


エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

──ミカ書 5:1

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イエス・キリストがクリスマスにお生まれになった場所は、ベツレヘムという小さな町でした。
しかもイエスがお生まれになった夜、ベツレヘムの宿屋はいっぱいで、ヨセフとマリアが泊まる場所もなかったのです。
この世の救い主、天の国の王たるイエスの誕生は、イスラエル王国の宮殿で、多くの人々に祝福されながら起きた出来事ではありませんでした。
誰にも知られない片田舎の小さな町ベツレヘムで、しかも人が泊まるような場所ではない馬小屋の中で、ほとんど誰にも知られずひっそりとお生まれになったのです。
なぜ神様は、この世界の救い主の生涯を、そのように始められたのでしょうか。

実は、旧約聖書をさかのぼって物語を読んでいくと、神はいつでも「小さい者、弱い者」に目を留められています。
出エジプトの物語などは特に象徴的です。
強大なエジプトの王国でイスラエルの人々は奴隷にされ、理不尽な重労働に課せられていました。
しかしそこで神様は奇跡によって奴隷となっていた人々を救い出していくのです。

イスラエルの人々が、何か他の人々よりも優れていたり、信仰深かったりしたわけではありません。
救い出された後も、神様に対して繰り返し文句を言ったり、神様に背いてしまう弱い人々でした。
しかしそのように弱い一人一人でさえ神は愛してくださって、また罪に対してはしっかりと罰を与えていかれました。
それを聖書は愛と呼んでいます。
そしてこの世の救い主イエス・キリストは、「いと小さき者」と呼ばれたベツレヘムで生まれるという預言が語られていくのです。

私たちはよく、自分の人生が最も調子よく進んでいるときは、神様が共にいてくださるからだと思うかもしれません。
逆にうまくいかない時、神様に見放されたと思うかもしれません。

しかし聖書はその全体を通して私たちに言うのです。
私たちにとって何もかもうまくいかない、多くの人が、「あの人は神から見放されたのだ」と思うような時にこそ、小さくされた私たちの心のうちに、神様は共にいてくださって、働いてくださるのです。

私たちも今日の聖書の言葉のように、自分のことを「いと小さき者」だと思う時があるかもしれません。
弱さの中にあるとき。焦りや失敗の中にあるとき。己の無力さと未熟さを感じる時。そこに、神様は──イエス・キリストは来られるのです。
私たちの何一つうまくいかないという無力さに寄り添うために、イエス・キリストは、一人では何もできない無力な幼子として、この世に来てくださいました。
そこに、神様の本当の愛が示されているのです。

だから私たちも、そのような神様の愛を、このクリスマスの時期が来るたびに、覚えたいと思います。
あなたがどんな人間でも、神様の前では、取るに足らない存在では決してないのです。
愛されるべき、守られるべき、尊ばれるべき価値ある存在として、神様はあなたを見てくださっている。
どうかそのことを、あなたの心のどこかに、刻んでおいてほしいと思います。
それはきっと、あなたをどんなときにも支える柱になるでしょう。