天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
──ルカによる福音書2:10-12
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クリスマスおめでとうございます。
イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスの夜、その知らせを最初に受けたのは、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちでありました。
子どものころから教会に通っていましたから、このイエスの誕生が羊飼いたちに知らされるシーンは慣れ親しんだものでした。
しかしこの箇所を初めて聖書の本文でちゃんと読んだのは、ちょうど高校生の頃でした。その時ふと思ったのです。
「そういえばなぜ、イエス様の誕生を一番最初に知ったのは、ほかならぬ羊飼いたちだったんだろうか」と。
この世を造られた神様が、満を持してイエス・キリストを人々の間に送られる。キリストは、ひとりでも多くの人が神様によって救いを得てほしいという神様の願いを叶えるために、この世にやってくるお方であったはずなのです。
自分が神様だったらどうするだろうと考えてみると、できるだけ多くの人に、「救い主が来たよ!」ということを知らせたいと思います。
それならば、当時日常的に人々に神様について教えている律法学者たちや、あるいは人々に広くお触れを出せるような王様に一番に知ってもらって、さらに広く言い広めてもらう。神様が望む世界に少しでも近づくためには、それが一番効率がいいし、一番の近道のように思ったのです。
でも、神様はそうはしませんでした。
神様はイエスの誕生を最初に知らせる人々として、よりにもよって羊飼いを選ばれたのです。
当時、人々に聖書を教える立場にあった律法学者たちは、聖書の律法を厳しく守って生活することに命を懸けていました。
その一つとして、律法に定められているように安息日には仕事をせず、決まった時間に礼拝をすることを自分たちに課していました。
そうすることによって、自分たちは神様の救いにふさわしい、正しい人間だという自負を保っていたからです。
一方、羊飼いたちはどうだったでしょうか。
羊は生き物ですから、安息日だからと言って、仕事であっても羊の世話をやめるわけにはいきません。
そのため、羊飼いたちは律法学者から、汚れた、立場の低い、神様から見捨てられた罪人たちだと見られ、差別されていました。
最も聖書に詳しい先生がそう言うのですから、多くの人々からも羊飼いたちはそのような蔑みの目で見られていたことだったと思います。
もしかしたら羊飼いたちも、自分たちのことをそのように見ていたかもしれません。
「どうせ神様は私たちに目をかけてはくださらない、神様の救いなんて、私たちの生活には関係がない」。そう思って生きていたことでしょう。
でも神様は、そのような羊飼いにこそ、イエス・キリストの誕生を誰よりも早く伝えたいと願ってくださったのです。
そこに、神様の愛が表されているのです。
本当の愛は、効率を考えません。忖度もしません。
ただ目の前の人が必要とするものを、全力で与えようとする、そういうものであるからです。
だから、そんな神様の愛が最も必要な人々に、救い主の到来を一番に伝えようとされたということなのです。
世界で初めてのクリスマスの夜、羊飼いたちは野宿をしながら、夜通し羊の番をしていたと聖書は語ります。
あなた自身が羊飼いになったと思って、想像してみてください。
草もたくさん生えていない、ゴツゴツとした岩が並ぶ荒れ野で野宿をすることは、不安と、緊張と隣合わせです。
真っ暗な闇の中、吹きすさぶ冷たい風をしのぐ壁や建物があるわけではありません。
温かい毛布もなかったでしょうし、羊は少し目を離すとすぐに勝手にどこそこに飛び出していってしまうような動物です。
夜には羊を食い物にする狼から羊を守らなければなりません。
そうやって、彼らがじっと不安と緊張の中で耐え忍んでいる夜の暗闇は、彼ら自身が置かれている状況、差別や、神に見捨てられているというさびしさを、余計に実感させられるものだったかもしれません。
でも、だからこそ神様は、そんな羊飼いたちに、一番に天使を送って伝えてくださったのです。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
「今日」と、天使を通して神様は伝えています。
今日、今この瞬間に。神様は一秒でも早く伝えたかったのです。
わたしはあなたのことを決して見捨ててはいないんだよ。
あなたが今置かれている状況がどれだけしんどいか、よくわかっているよ。
だからそんなあなたを救うために、わたしは幼子イエスを──救い主を送ったんだよと。
羊飼いたちはどうしたでしょうか。
彼らは天使の言葉を聞いて、これ本当かな、と話し合ったり、俺達はきっと夢を見ているんだよ、なんて言いませんでした。
彼らはすぐに、「さあ、ベツレヘムに行こう」と立ち上がっています。
彼らは神様の言葉を信じただけではありませんでした。すぐにそれを具体的な行動に移したのです。
心理学者のカール・ロジャーズは、人間が変わるための条件について、「受容のパラドックス」と呼ばれる逆説を提唱しています。
「私が自分自身を、あるがままに完全に受け入れたとき、そのとき私は変わることができる」。
つまり、人は、「もっと立派にならなければ、自分は認めてもらえない」と焦っているうちは、本当の意味で望んだ自分の姿へと変わることはできません。
でも、「今のままのあなたは十分に価値があるんだよ」「あなたの弱さを含めて、あなたは受け入れられているんだよ」と無条件に受け止められる経験したとき、人は初めて、内側から変わり始める力が湧いてくるのだというのです。
この時の羊飼いたちも、そうだったのではないでしょうか。
もうあと一週間と少しで、一年が終わろうとしています。
この一年の中で、私たち自身のことを振り返ってみたいと思うのです。
私たちも、この羊飼いたちのようなときがあったのではないでしょうか。
周りの人からの評価に振り回されたり、なかなか解決できない悩みを抱え続けて、疲れ果ててしまったこと。
乗り越えられない壁にぶつかって、どうせ自分なんて大した人間じゃない、取り柄もないし、誇れるものなんか何もない、と暗い気持ちを抱えたこと。
今頑張ったって無駄かもしれないという無力感に苛まれたこと。
──そんなあなたはいなかったでしょうか。
そんなあなたに、一番に聞いてほしいんだ、と。
今日の聖書の言葉を通して、神様は私たちに呼びかけてくれているんじゃないでしょうか。
神様は、自分が望む世界に近づけるために、効率なんてこれっぽっちも考えていません。
いや、世界なんてどうでもいい。今日、今ここに、わたしの目の前に生きるあなたがしんどい思いを抱えているなら。それでも無理をして、這いつくばってでも頑張らなきゃいけないと思ってしまうのなら。そんなあなたを救いたい。
そのように神様は、この世の羊飼いである私たちひとりひとりに、伝えようとしているのではないでしょうか。
イエスは十字架にかかって死なれる前の晩、これだけは守ってほしいと「新しい掟」を弟子たちに与えられました。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という掟でした(ヨハネ福音書15:12)。
イエス・キリストという幼子が、お生まれになったこと。そしてその救いの知らせが、羊飼いたちにまず知らされていったということ。
そのクリスマスの出来事そのものが、あなたという存在を誰よりも大事に思ってくださっている神様の愛が表された出来事であるのです。
その愛を、私たちは心に留めたいと思います。
そして私たちもそのように、暗闇の中にいる、苦しみ悩む周りの人々のために立っていきたいのです。
「ありのままのあなたでいいんだよ」というメッセージを、今日、家族や友人などの親しい人々、愛する人々と、互いに伝え合いたいと思います。
そこにこそ、本当のクリスマスがあるのです。