何事にも時がある、と言われるのは



何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

──コヘレトの言葉3:1

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先日子どもと散歩をしていて、神社に寄りました。
お賽銭箱の隣にあったおみくじを子どもが引きたいと言うので引いてみたんです。
運勢面は「吉」と出ていたんですが、裏面にある「神の教え」と書かれていた内容をとても興味深く読みました。
こういうことが書かれていました。

「人生の山坂、涙にくれる時はあれども、苦しみ、悲しみの後には、そのぶん充実した喜びの実を、 穏やかな幸福の種を、神様はきっとお与え下さる。拝む全ての人々に。」

これを読んだとき、先ほどお読みした聖書の言葉を思い出しました。
「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」
この言葉には、このように続けられています。

生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
……
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。(2-4節、11節)

聖書が言っているように、私たちの人生には、良いことも悪いことも起きるのです。
そして宗教の教え、神様が私たちに語ってくださる必要な言葉と言うのは、どの宗教であっても同じところに行きつくのだなとも思います。
それは私たちがどのような苦しい状況の中に立たされたとしても、神様は宗教の違いを超えて同じように私たちを励まし、支えようとする存在として理解されているということです。

違いもあります。キリスト教、聖書の捉え方においては、悪いことの後に必ず良いことが来る、というようには教えていないのです。
ここにこそ、キリスト教らしい捉え方があるように思います。
私たちにとって悪いと思われるようなことの後に、「次はきっと良いことが起こる」という希望を持つことは大事なことです。
それを信じて頑張っていくこともできるでしょう。
しかし現実には、もっと悪いことが続くこともあります。

私たちがおみくじの教えを読んで、悪いことが起こった後に良いことが起こらなければ、「こんなの嘘じゃないか」と神様を呪い、憎むかもしれません。
そうやって私たちが挫折し、本来神様を信じることによって得られるはずの励ましや慰めを自分から投げ捨ててしまわないように、今日の聖書の言葉はあるのです。
聖書の神様はあなたに「大丈夫、悪いことの後には良いことがあるよ」と安易に慰めたりはしません。
ただ、「神様はちゃんと、全ての出来事が起こるべくして起こされている」と言うのです。
そのような教えによって、もし私たちに悪いことが続いているとしても、「次はきっと良いことがある」という気休めの言葉で現実逃避をしないようにと神様は私たちを促すのです。
「これは神様が定められたように、起こるべくして起こった。なぜこんなことが起こったのか、それに対して私たちはどうするべきか」という、今ここに生きる私たちの現実に目を向けさせ、次の一歩を考えることができるようにと、神様はどのような時にも私たちが倒れないように支えてくださっているのです。

聖書は私たちのうちに罪がある、神様の思いを的外れに捉えてしまう心があると繰り返し教えています。
私たちの世界にはこの罪によって自分勝手になり、自分の幸せのためなら誰かを傷つけても良いと考える人が溢れています。
悪いことが起こると神様を悪者にしたり、馬鹿にしたり、信じられなくなります。
でもそれが、私たち人間の生まれついての性質であることを、神様はよくご存じなのです。
そしてそれでも神様は人間を救うことをあきらめず、決して見捨てないお方であることが、聖書には書かれているのです。
だから聖書は2000年以上もの間、神様からのメッセージとして繰り返し読まれ続けているのです。

全てのことには、定められた時がある。
折が悪い時には、自分を振り返って反省してみましょう。
調子よく事が進むときには、周りに感謝をすることを忘れないようにしましょう。
そしてその全てを私たちのために整えてくださっている神様にいつも感謝をしながら、毎日を過ごしていきたいと思います。