木には希望がある、というように
木は切られても、また新芽を吹き
若枝の絶えることはない。
──ヨブ記 14:7
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一本の木が植えてあるのに目が留まりました。
太い幹には苔や小さな雑草が生えていて、長い年月をかけて太く枝分かれをして伸びたのだなということがわかる樹です。
その根元近くから、細くて新しい若枝が上にまっすぐのびているのを見つけました。
既に大きな幹があって、その上にさらに太く分かれした枝があるにも関わらず、さらに新しい若枝が生え、そこに青々とした新しい葉っぱが付いている。
それを見て、聖書にもこういう箇所があったよなあ、と今日の箇所を思い出していました。
旧約聖書の中でも、ヨブ記は最も救いのない物語です。
神に正しい人であったヨブという人が、悪魔によって信仰を試されるために、財産から家族まですべてを失ってしまうのです。
このような罰を与えられる理由など思いつかない、罪を犯したわけではないのに、理不尽にも苦しめられる。
ただ自分が持っているものが失われるだけでなく、周りの友人からも「これだけ悪いことが起きたということは知らないうちにあなたが悪いことをしていたということだ」と決めつけられ、どこにも救いがない──そんな書なのです。
ヨブは嘆いています。
木でさえ切り倒されても新しい芽が出て若枝が生え出でるというのに、正しく生きていた自分にはそんな希望さえ与えられず、神様からは捨て置かれている、と言うのです。
さらにはそのように神様に訴えても、神様は「ヨブ、あなたは神様の計画をすべて知っているとでもいうのか、知りもしないのに、決して救ってもらえないなんて言うな」と逆に叱られてしまいます。
私たちの人生にも、きっとそういう時が起こるのだと思います。
人生はいつも順風満帆で、楽しいことだけが起こるのではないからです。
失敗することも挫折することもあるし、立ち止まることもある。
自分は全然悪くないはずなのに、周りからは責められ、友人も離れていく。
共感してくれる人が誰もいない、神様さえも自分を見放したかのように感じてしまうときが、きっと誰しも一度は経験するのだと思います。
しかし大事なことは、ここでヨブが自分と若枝と比べて、いっそう絶望している、ということなのです。
私たちの心が落ち込んでいるとき、自分よりも良い状況にいる人、自分が欲しいと思うものを持っている人を見て、「それなのに自分は」とさらに落ち込んでしまうものなのです。
極限まで追い詰められた人がどのような考え方をするようになるのかということ、その変化を、ヨブ記は鮮やかに描き出しているのです。
もし私たちが落ち込んでいない時に、希望に満ち、今日は、明日は何をしようとワクワクしながら過ごしている、そんな時に、若枝が生え出でている樹を見ても、自分と比較なんてしないと思います。
むしろ、これだけの老木、これだけ成熟した樹でさえも若く新しい枝を伸ばし、新しい葉をつけることができるという希望を受け取っていくことができる。
だからこそ、私たちがそのように考えられなくなったとき、あなたもヨブのようになるかもしれない。
絶望し、自分で自分を落ち込ませ、神様には文句を言うような人になり果ててしまうかもしれないということを、ヨブの物語はあらかじめ私たちに教えているのです。
私たちの人生、山あり谷ありです。良い時もあれば悪い時もあります。
でも、折が悪い時に、失敗が続いたり、落ち込んだり、思うように結果が出ないスランプに陥ったりするとき、あなたはどうやってそれを乗り越えるでしょうか。
今日の聖書の箇所が、「でも自分には希望なんかない」と比較をして落ち込む言葉になる時もあります。
逆に、「この若枝のように、何歳になっても新しい芽を出せる自分であろう」と希望を持って受け取れる言葉になる時もある。
あなたがいつも希望に満ちて、苦難を耐え忍び、乗り越えていくために、私たち自身がどのような人間なのか、何に弱いのかをしっかりと見つめておきましょう。
そのように自分を見つめ、自分の人生を自分で歩もうとするあなたを、神様は決して見捨てたりしないのです。