泉の水が湧くように
彼女の悪は湧き出る。
不法と暴力の叫びが聞こえてくる。
病と傷は、常にわたしの前にある。
──エレミヤ書6:7
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ある朝、学校に来る途中の路上で、カマキリが車にひかれてぺしゃんこになって死んでいるのを見かけました。
思わず自転車から降りてお祈りをしましたが、これは私たち人間の世界でも変わらず起こっていることだな、とふと思いました。
カマキリをぺしゃんこにした車は、私たち人間にとっては便利な道具です。
しかし、車の排気ガスや道路の整備などによって、自然は消え、破壊されてきました。
野生動物が生きる場所を失い、人里におりてきて被害を及ぼすというニュースもよく聞くようになりました。
これは人間と動物の間だけではなく、人間同士の間でも起こりうることです。
原子力の技術は私たちに豊かな生活をもたらす半面、使い方を誤れば多くの人々の命を一方的に奪うことができる力を持っています。
より大きな力を持って相手を踏みにじることは、国家間の戦争だけでなく、私たち一人一人の関係性の中で、相手を一方的な暴力で従わせようとするDV被害の中にもあります。
これらすべてのことは、誰かが自分の都合の良いように生きるために、力を持って弱いものを踏みにじることがある、という共通点を持っています。
このような悪、力によって自分の思い通りに周りを圧倒する、という悪は、2000年以上前から人々がそそのかされてきた誘惑であったと、今日の聖書の言葉も語っています。
「泉の水が湧くように彼女の悪は湧き出る。不法と暴力の叫びが聞こえてくる。病と傷は、常にわたしの前にある。」
この彼女というのは、エルサレム、ひいてはそこに住む人々のことを指した言葉です。
人々は秩序も他者への配慮も愛もなくし、暴力を振るい、他者を傷つけ、病に陥らせているのだというのです。
そしてそれは、こんこんと泉の水がわくように絶えることがないのだということを、神様が嘆いておられるのです。
何千年も変わることのない悪ががすべての人間のうちに、わたしたちのうちにあるということを、私たちは絶えず思い起こさなければならない。
そのために、聖書の言葉は今も私たちにこのように語っているのです。
わたしたちが虫などの小さな命を知らずに踏みつぶしてしまったときに、悲しむのではなく嫌悪感をもって死骸を汚いものとして取り除こうとするように。
力を振るう側は、意識をしてそれを振るっていることは少ないのです。
誰かを傷つける力がある、ということを意識せずに私たちは普段生きている。
だからこそ、私たちは自分が誰かに関わるとき、相手を傷つけてしまわないように気を付けなければなりません。
これは単に力が強い側だけの話ではありません。
自分をわざと小さくか弱く見せ、相手の同情と依存を誘い、周りをコントロールしようとすることも、一つの暴力であるからです。
私たちはそのような力を、関わりあう相手に振るってはいないでしょうか。
自分の弱さを見せることで相手の優しさにつけこみ、自分の都合の良いように動かそうとはしていないでしょうか。
そうやって私たちがお互いに病と傷を与え合うような関係性を、神様は望んでおられないのです。
パウロは旧約聖書の律法とキリストの愛の教えをその手紙の中でうまく要約しています。
「人を愛する者は、律法を全うしているのです。…どんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。…愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。(ロマ13:8-10抜粋)」
改めて私たち一人一人が、このような人の罪、悪が自分の中にもないか、振り返ってみたいと思います。
そしてもし相手にその悪を見つけたなら、これ以上傷つけられないようにお互いに話し合うか、あるいは勇気をもって離れるかを選びましょう。
あなたが傷つき病むことがないように。喜び、平安の中に生きることができるように。
あなたのことを誰よりも愛する神様が、そう願っておられるからです。