敵を愛せるようになるために


しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

──マタイによる福音書 5:44

聖書に記されたイエスの教えを読んでいくと「これについては守れない」と思うような教えもあります。
その一つとしてよく挙げられるのが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という今日の聖書の箇所だと思います。

私たちにとっての敵──相手を理解をする気もなく自分勝手で、利益をもたらすどころか傷つけてくるような人を、なぜイエスは敢えて愛しなさいと言われたのでしょうか。
イエスがここで言う「愛する」と訳されている言葉は「好きになる」ということではありません。「大切にする」「相手の立場に立って関わる」という意味の言葉です。
しかしそれでも、なぜそんなやつのために自分の心を寄せなければならないのか、と思う人が大半でしょう。

しかしふと、考えることがありました。
私たちが敵だと思っている人を愛さなくても生きていけるのは、その敵よりも簡単に大事にできる人が他に選べるからではないか、ということに思い至ったのです。

想像してみたいのです。
もし、自分以外の人間が全員、この世界から死に絶えてしまったとしたら。
あなたは一人ぼっちで、何ヶ月も悲しみと深い孤独の中で生き延びなければならなくなったとしましょう。
それはどれほどのさびしさと絶望でしょうか。

想像してみたいのです。
そのような孤独の果てに、あなたは自分以外の生き残りに、一人だけ出会ったとしたら。
でもその人が、かつてあなたにとって最も嫌いな敵と呼んでいた人、もっとも許せないと思っていた人だったとしたら、あなたはどうするでしょうか。
あなたはきっと、その人を憎み、ゆるせないという心を抱えていたことを思い出すと思います。
でも、ふたりきりになってしまった世界の中で、「あなたがいてくれてよかった」と少しでも思えるなら。
私たちはかつての赦せない憎しみを乗り越えて、支え合い、助け合って生きる関係へと進み出すことができるのではないでしょうか。

私たちが誰かと関わり合う時、もし自分とその人しか世界にはいない、と考える人はほとんどいません。
なぜならそんなことに労力を注ぎ込まなくとも、もっと簡単に仲良くなれる人を他に見つけることができるからです。
それほど、この世界にはたくさん人がいるからです。

つまり私たちは誰しも、関わり合う相手を、知らず知らずのうちに「あなたは敵か味方か」とジャッジしているということです。
誰かが私たちを傷つけ、敵になっていくということの裏側には、私たち自身も、自分にとって都合が良い相手を味方にし、自分に都合の悪い人を敵に定めてしまおうとする自分勝手な心が、大なり小なりすべての人の心にある。
だからこそイエスは「敵を愛しなさい」と勧めているのだと思います。

憎しみやしがらみ、傷つけられた記憶が邪魔をするかもしれない。
それでも、どのような人のなかにも「あなたがいてくれてよかった」という一点が必ずある。
そのことをあなたが信じ、全ての人の中にその一点を探し出そうとすることができれば、あなたの生きる世界はきっと変わっていく。
目の前の敵があなたの友になっていく。
そのような神様の御心に適った世界への第一歩を、イエスは私たちと共に踏み出してほしくて「敵を愛しなさい」という勧めを呼びかけておられるのです。

私たちのすべての罪を赦す十字架の上から──今日、この時も。

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