「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
──ローマの信徒への手紙 12:20
+++
1877年、つまり明治10年、熊本の地で起こった日本最後の内戦とはなんでしょうか。
答えは西南戦争です。この西南戦争の中で最も激戦が繰り広げられた場所として、田原坂での戦いがよく知られています。
西郷隆盛率いる薩摩軍が北上して熊本城を攻略しようとする一方で、明治政府の新政府軍がそれを迎え撃つという戦いが繰り広げられたと伝えられています。
その凄惨な戦火のただ中で、現在の日本赤十字社の前身である「博愛社」が誕生したことはご存じでしょうか。
当時、戦場には政府軍、薩摩軍を問わず、傷つき倒れる兵士たちが溢れていました。
多くの人々が倒れている兵士が敵なら見捨て、味方なら助けるように命を選別していましたが、後に「博愛社」を立ち上げる佐野常民(さの つねたみ)氏をはじめとする人々は、敵味方を区別なく救護するという誓いを立て、助けていったのです。
それは、彼らが目の前の人々を、敵か味方かという視点を超えて「傷つき苦しんでいる一人の人間」として見ていたからでした。
今日の聖書の中で、パウロもこのように言っています。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
パウロがこのように言った当時のキリスト者たちも、激しい迫害の中にありました。
その中でパウロは、「復讐してはならない」と勧めます。過ちに報いを与えるのは神様がしてくださることだからです。私たちはそこから一歩進んで「敵が必要としていることをすすんで満たしてあげなさい」とパウロは命じたのです。
そしてパウロはこう続けています。
「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
この「燃える炭火を頭に積む」という行為は、当時中東において、自分の過ちを認め、悔い改めを示すために行われていたと言われています。
まさにそれは、西南戦争で「博愛社」の救護を受けた人々にも起こったことだったと思います。
敵だと思っていた相手に救護された兵士たちの気持ちを想像してみたいのです。
昨日は殺そうとしていた相手に包帯を巻かれ、水を与えられた兵士たち。
本当は戦場で死ぬはずだった命を敵に救われたことに、どれほどの衝撃と救いを感じたことでしょうか。
自分はいったい誰と戦っているのだろう、本当に相手は殺すべき人間なのだろうと改めて自分に問うことになった瞬間だったのではないかと思うのです。
まさにそれは、「燃える炭火を頭に積む」、悔い改めを引き起こす博愛の働きであったに違いありません。
聖書の言葉に耳を傾ける私たちも、そのような働き、そのような心の在り方に倣いたいと思うのです。
今、私たちの社会には、西南戦争のような戦いは起こっていません。
しかし、SNSや日々の人間関係の中では、人と人とがぶつかったり、すれ違ったり、傷つけあうということが起こり続けているのだと思います。
何かの問題の原因を誰かのせいにしたり。相手を一方的に敵と決めつけて排除しようとしたり。その人が困っていても「自業自得だ」と見捨てたり、無関心になったりする。また私たち自身が、そのような関わりによって、心を深く傷つけられる時があるかもしれません。
これは、誰にでも起こりうる罪の姿なのです。
だからこそ、何千年も前から神様が私たちに教え続けている聖書からの呼びかけを、皆でいつも心に留めておきたいと思います。
敵であっても味方であっても関係なく、あなたと関わりを持つ人々が求めているものを、何であれ与えていくこと。
これこそ、イエスが教え、パウロが伝えた、神が私たちに勧めておられる心の在り方、愛ある奉仕の姿なのです。
そのようにして関わり合う生き方を、私たちがその身をもって為していく時、きっと私たちの目に見えないところで、神様がその人の過ちに報い、神様がその人を悔い改めさせ、神様がその人を癒し、神様がその人とあなたとの関係を整えてくださるはずです。