イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
──ヨハネ福音書20:15-16
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十字架の死からイエス・キリストが復活されたことをお祝いする復活祭(イースター)が今年もやってきました。
今年のイースターで読まれる聖書の箇所では、復活したイエスに出会ったマリアが、はじめイエスを「園丁」だと思った、という場面が記されています。
長らくこのマリアの勘違いを見過ごしていましたが、なぜマリアはイエスを「園丁」だと思ったのでしょうか。
考えてみれば、墓守や兵士たちならともかく、イエスを葬った墓の近くにいる人としては「園丁」は不自然なのです。
しかしここで敢えてマリアがイエス・キリストのことを園丁だと勘違いしたところに目を向けると、気付かされることがあるのです。
それは、神様ご自身が、創世記の天地創造の時点で既に、創造主であると同時に園丁であった、ということです。
神様は天地を造り、人を造り、エデンの園の中央には命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた、と創世記は語ります。
しかし園の全ての果実を人に食べて良いと言いながら、この二つの木の実は食べることを赦されませんでした。
それでも人が神様の言いつけを破り、善悪の知識の実を食べてしまったがゆえに、人はエデンの園を追放されていくことになったのです。
この堕罪の物語を10代の子どもたちに話すと、ある子がこのように言いました。
「食べちゃいけないんなら、初めから植えてなきゃよかったんじゃない?」
そう、なぜ神様は食べてはいけない樹の実を生えいでさせたのでしょうか。
それに理由を探すなら、きっとあの二つの樹の実は──神様ご自身が食べるためのものではなかったか、と思わずにはいられないのです。
人が神様と同じ知識の実を得たとき、神様は園を「歩いてこられた」。そして「どこにいるのか」と声をかけられています。
この出来事は、神様もまた、人と同じ園に生きておられる方であったことの表れではないかと思うのです。
神様は約束を破った人を糾弾するためではなく、対話し、悔い改めさせるために、来られたのでした。
そしてそのような関係性が再び実現したのが、イエス・キリストという神様が人間の世にやってきて、共に生きてくださるという出来事だったのです。
だからこそ神様は、エデンの園を造り、そしてその管理をしていた「園丁」であったのです。
人はその管理(日本語訳では「支配」と訳されている)を委ねられた協働者でありました(創世記1:28)。
何千年ものあいだその関係は破れを抱えたままでしたが、それでも神様はその関係性を修復することを諦めませんでした。
エデンの園という天の国を造り、そこに全ての人を招き入れるために、人々の心を耕し、育み、守っていく園丁の働きを、神様はずっと続けておられたのです。
人は神様を裏切り、自らを神様とする罪のゆえに、エデンの園から追放されていったと聖書は語ります。
しかしそのような罪を抱えながらなお、私たちは「我々(神)にかたどり、我々に似せて(創1:26)」造られた唯一の存在であることが損なわれることはありませんでした。
だからマリアは、復活し、神様と同じく永遠に生きることとなったイエスを、「園丁」と──おぼろげながら神様の本質を感じ取って、そのように言ったのではないだろうかと思います。
わたしたちは神様を見ることは出来ません。
罪のゆえに、神様から離れることは容易くとも、神様に近づき、神様と共に生きようとすることの難しさを誰もが抱えていると思います。
でも、わたしたちは生まれつき、神様によって造られた人間ということによって、神様という存在の一端を感じ取ることが出来る力を誰もが持ち合わせているのではないでしょうか。
神様を知らなくても、誰に教えられることがなくても、誰もが祈ることを知っているように。
神様の働きが園丁であること、我々という畑を耕し、育み、実らせるために力を尽くされる方であることを、きっと心の何処かで知っているのではないかと思うのです。
そのようなマリアに、イエスは声をかけられました──「マリア」と。その人自身を表す名前を呼びかけてくださったのです。
それによってマリアは、イエスを園丁ではなく、イエスだということに気付かされていったのてす。
名前とは、その人個人の全存在を表すものです。そしてその名前を呼ぶということは、その存在を認め、関わりを持とうとすることだ、と、ポール・トゥルニエという神学者は言いました。
だから神様が一人の人の名前を呼ぶということは、神様からその人に働きかけ、私たちと関わりを持つために神様自らが出会おうとしてくださった、ということなのです。
マリアはそのような呼びかけを受けて、「ラボニ(先生)」と応えました。私たちが神様に出会うということ、それはすぐさま信仰に結びついてはいません。マリアが「私は主(神)を見ました」と言うまでにはしばらく時間を必要としました。
でも、それはマリアにとって、神様に出会うということを経験したすべての人にとって、必要な時間だったのだと思います。
復活のイエス──私たちと同じ世界に生きてくださった永遠の神様の働きに私たちが気付かされる時、私たちの中にある神様を見出す心が、そこから少しずつ芽吹かされていくのです。
神様を知らず、神様に逆らって自分勝手に生きる私たちが、それでも赦され、神様の側から信仰を芽吹かされていく。
そしてその芽吹きと開花まで、園丁である神様はじっと忍耐を持って働きかけ、大事に育ててくださってくださるのです。
イエスが復活し、その復活したイエスとの出会いが聖書に記された理由がここにあります。
神様が人とともに生きてくださるというありがたさは、そういう事があったんだね、に留まらない、かつて過ぎ去った2000年前の出来事ということに終わらないものなのです。
その喜びの出来事が時と場所を超えて今も起こりうるために、イエスは「永遠のいのち」に生きる復活を経なければならなかったのです。
永遠に生きておられる神様は、私たちに再び出会おうとしてくださっています。
悲しみの中に慰めを、落ち込んでいる人には励ましを、喜びを共に分かち合い、より大きな喜びとするために、イエスは死から復活してまで会いに来て、関わりを持ってくださるお方なのです。
だからこそこの復活という出来事を、キリスト教は何よりも大事にし、人々への福音として伝える宗教になっていったのだと思います。
イースター、主の復活。
それはこれを読んでいるあなたの心に、今、イエスが出会ってくださるために起きたことでした。
マリアは園丁に叫んでいます。「わたしが、あの方を引き取ります。」心の支えであった生前のイエスを亡くした悲しみをぶつけ、亡骸を掻き抱いてでもその悲しみをどうにか紛らわせようとするのです。
その嘆きを、祈りを、神様は聞き逃すことはありません。「あなたがたに平和があるように」と、同じく恐れの中にあった弟子たちに対してイエスが祈ってくださったように(ヨハネ福音書20:19)、神様はいつも私たちのために祈られ、私たちが神様の働きとその御心を見出すようにと、いつも隣りに立ってくださっているのです。
だから私たちも祈りたい。
私たちのうちにある喜びも悲しみも、必ず受け止めてくださる永遠のイエス・キリストが、今も生きておられることを、時間をかけて信じていきたいのです。