命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
──詩編23:6
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かの有名な物理学者、アインシュタインは「人は生まれながら孤独なのだ」と言っています。
しかしアインシュタインは、この私たち一人ひとりについてまわる孤独を、ただ寂しいものだとだけ言いたくてそういったのではありません。
物理学の見方では、私たちが見ている世界は、私たちが見ている(観測している)から世界が存在している、と考えているからです。
私たちが見て、触れて、感じて、世界がそこにあることがわかる。動かず、触れず、見ることが無かったら、そこには何も感じられないので、何もない、という見方です。
そうなると、最終的には哲学の「われ思う、故に我あり」とデカルトが言った言葉にたどり着くことになります。
わたしという一人の存在だけが確かなことであるので、孤独である、という見方になるわけです。
この世の全ての学問は、神様についての学問、神学から生まれました。
というのは、哲学も、科学──つまり物理学も、元々は神様の作ったこの世界のすばらしさを、神という理由以外で説明するために生まれたものだからです。
ですから、その哲学や物理学が「人は生まれながらにして孤独なのだ」と、「私以外には確かなものはひとつもない」と言うということは、必然的に、それでは私自身はどうしてここに存在しているのかという疑問に行きつくことになります。その疑問に答えを与えられるものこそ、神学なのです。
詩編23編は、詩編の中でも最も知られた詩編のひとつです。
この詩編は旧約聖書の中で最も偉大な王と呼ばれたダビデが歌った詩であると言われています。
「主はわたしを青草の原に休ませ…魂を生き返らせてくださる。」
「死の陰の谷を行くときにも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」
ダビデはその人生の中で幾度となく命の危機にさらされるような時もありました。
きっとそのたびに、それでも自分の命とその人生の歩みを守ってくださる神様に感謝をしていたことが、この詩編からはうかがい知れるのではないでしょうか。
そして今日の聖書の言葉をもって、詩編は締めくくられていきます。
「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」
私たちの人生がどのような困難の中にあっても、私がここに生きている、というその一点において、既に神様の恵みと慈しみは十分に注がれているものなのだと、ダビデは捉えているのです。
私たちはなぜここに存在をしているのか。
それは、神様が私たちと共に生きることを望んでくださったから。そして私たちに、様々な形で恵みと慈しみを与えようとしておられるからだ、と聖書は語っているのだと思います。
私たちがもし、孤独だと、ひとりぼっちだと感じる時には、同じように考えた哲学の偉人達がいたことを思い出したいのです。
そして、たとえあなたが孤独を感じていたとしても、そこには決してあなたのことを見捨てない神様が共におられます。
あなたの人生がどのような時にも、恵みと慈しみをもって祝福してくださっている神様が確かにおられることを、いつでも私たちは今日の聖書の言葉から思い起こしたいと思うのです。