彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
──ヨハネによる福音書1:41
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新約聖書の福音書と呼ばれる書物はどれもイエスの生涯について語られているものですが、「人がどうやってキリストに出会うか」ということについて一番うまく書いているのは、今読んだヨハネによる福音書だと思います。
というのは、他の福音書では弟子になる人々はほとんど、イエス自身から声をかけられて弟子になっています。
しかしヨハネによる福音書では、自らイエスの弟子になろうと思ってその人の方からイエスに関わっていった人や、そうやって弟子になった人から話を聞いて自分も弟子になった、という出会い方がほとんどだからです。
今日お読みした箇所に登場する彼は、シモン・ペトロの兄弟であるアンデレという人でした。
このアンデレと言う人は、元々師と仰いでいた洗礼者ヨハネからイエスのことを聞くと、すぐにイエスのところにいって、弟子になりました。
そして弟子になった後、まずしたことは、自分の兄弟であるシモン・ペトロに会って、イエスのことを話した、というのです。このまず、と訳されている言葉は、「すぐさま」とも読める言葉ですから、アンデレのフットワークの軽さがすごく表れていると思います。
ひろ さちやさんという方の本に、「ほんのちょっと発心しただけですぐに説法をはじめる菩薩」という話がありました。
菩薩という存在は、仏になる前の段階の人のことです。
昨日、仏門に入って勉強を始めたばかりなのに、今日は先生になって仏教を教えている、そういう人の話です。
この話は、その人がすごいということではなく、仏教の特色である「学ぶこと」と「教えること」が一体になっているということです。
教えるということは不思議なものです。
教えるためには学んだことを充分に理解し、整理していないと教えることができないことに気付かされます。
理解や整理ができていなくても、教えることによってそれが進むということもあります。
私たちが学ぶことは、教える事と結びつくことでもっと深められるものであるのです。
今日の聖書の箇所で登場した彼、アンデレという人もまた、イエスに出会い、イエスのことを誰かに伝えることによって、自分がなぜイエスの弟子として従おうと思ったのかを振り返り、深めることができるようになったと思います。
私たち自身の心や気持ちも、だれかと一緒に分かち合うことによって、それが深まることがある。
私たちに与えられているものすべてを、表面的な受け取り方で終わらせるのではなく、次につなげていけるような形で深められるように、今日の聖書の物語、アンデレの姿に倣ってみたいと思います。