あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
──申命記5:8
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「キリスト教って偶像崇拝禁止なんですよね? じゃあお守りもだめですか?」と聞かれたことがあります。
その答えとしては、だめです、とも言えるし、だめではないです、とも言えます。
どういうことかというと、そのお守り自体を神様のように扱って、すがってはいけないよ、ということを聖書は言っているからです。
聖書が言う偶像崇拝禁止の「偶像」というのは、銅像とか木像とか、物理的な、宗教的な物だけを指すのではありません。
神様よりもお金が大事! という人はお金という偶像を神様として崇拝していることになりますし、今回の質問であれば、神様よりもお守りが大事、になってしまうのはよくないよ、ということを聖書は言っているのです。
そんなことわかってるよ、と思うかもしれません。
でも今日の聖書の箇所にあるように、偶像崇拝の禁止と言うのは、他には「殺してはいけないよ」「人のものを盗んではいけないよ」というような、当たり前とも思えるようなルールとあわせて神様が定められた、十の戒め(十戒)の一つなのです。
つまり、それほどわたしたちは、神様でないものを神様にしてしまうことがあるということです。
たとえばあなたがお守りを買ったとしましょう。
何かの試験に向けて勉強しているなら、学業成就のお守りを、という人もいるかもしれません。
でも、そのお守りをなくしてしまったら、転んでお守りが破けてしまったら、どう思いますか。試験の日の朝にそれが起こったら、どうしますか。
お守りなんて開けてみたら、ただの木の板が入ってるだけなんです。
お札の一枚でも入ってくれていたらありがたみもあるのに、立派なのは外側だけで、内側に入っているのはただの木の板なんです。
だから、その木の板と刺繡の入った袋に菅原道真公か誰かの力がこもっている、ということを信じることで、お守りは「お守り」になるんだと思います。
でも、人間の心と言うのは揺らぎやすいものです。
大事なのは信じることなのに、その木の板と刺繍の入った袋そのものが大事ではないはずなのに、それがなくなったり、壊れたりすると、途端に効力が失われた、と思いがちではないでしょうか。
もしそうなら、それは私たちが、いつの間にか木の板や袋を神様として見てしまっている、ということなのだと思います。
だから、聖書が語る神様は、「わたしのほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない」と、偶像崇拝を禁止したんだと思います。
「そこに神様はいないよ、目に見える木の板や刺繍の袋は神様ではないし、それが破れたり壊れたりしたって、神様は傷ついたりしないし、壊れたり、いなくなったりもしないよ」ということをハッキリと私たちに伝えてくれているのです。
これは言いかえれば、「目に見えるものに頼らなくても、神様を直接信じて、神様に対して直接祈ってくれていいんだよ」ということです。
目に見えるお守りが欲しくなる時だってあると思います。お守りじゃなくて、十字架のついたロザリオにしてみようかという人もいるかもしれません。
でも、覚えておいてほしい大事なことは、目に見える物の中には神様はいないということです。
あくまでそれは、私たちが神様を信じ、私たちが神様に祈るために、助けてくれるものに過ぎないのです。
いつでもどこででも、目には見えないかもしれないけれど、神様はあなたのことをじっと見守っていてくれています。
そして、あなたが求めることに、一番いいものを返してあげよう、と思ってくださっています。
そのような神様であることを信じて祈ることが、一番大事なのです。