Blueskyで、こういう記事を紹介しているpostを見かけた。
「なーんだ、ただの水たまりじゃないか」というサイトの「他人のブログの感想などをもうちょっと増やすとどうだろう?」という記事だ。
上記記事を読んでもらえるのが一番なのだが、趣旨としてはタイトルの通りだ。
リンクを貼って一行感想をつけてズラッとブログ紹介、みたいなのはあるけれども、もっと熱量を込めた形で他の人のブログを紹介するのはどうか、というもの。
なるほどな、と思って、このブログの紹介をしていたpostをBlueskyの方でリポストし、自分もこの記事の感想をpostしようとしたところで立ち止まった。
待てよ。今自分は何をしようとした?
「誰かのブログの記事をブログに引用して感想を書く」面白さについて語った記事を、自分のブログで紹介せずにSNSにpostしようとしたな?
ふと思う。
かつてのTwitterを始めとしたSNSの走りというのは、「マイクロブログ」としての体で始まったのだと。
つまりTwitterを始めとした今現在の文字が主体のSNSというのはだいたいブログと言ってよいのではないか。そう思うと、「いやいやそうは言うまい」という声が湧き上がってくる。
とするなら今、TwitterのようなSNSと個人ブログとが、別物として見られている(ように自分には感じる)、その違いというのはいったいどこにあるのだろう。
多分その一番の違いはタイムライン(Blueskyではfeedと呼ばれるもの)という仕組みだろうなと思う。
誰かがマイクロなブログエントリ(いわゆるpostにあたるものだ)を投稿する、それ自体は、文字数の違いはあれど記事の投稿であることに違いはない。
しかしその投稿を何らかのアルゴリズム(単純に時系列順とか、カスタムフィードのようにある用語を含む投稿であるとか)によって一覧化されるシステムが、公開された場と一体となって提供されているというところに、おそらく現代のブログとSNSの間に大きな溝があるのかもしれない。
まあWordPressなどはWordPressを使ってるブログの投稿がなんとなくサジェストされて流れてくるディスカバーやフォローしたブログの通知を受け取ったりは出来るが、SNSほどの利便性を感じない。
多分、マイクロブログはマイクロな投稿であるがゆえに、その投稿の多様さと投稿数の多さに対して、「投稿の検索」「フォロー」「タイムラインの構築」などの機能をより整えざるを得なかったのかもしれない。
そう考えると、今や文字主体のSNSと呼ばれるものは、もはや「マイクロブログ」とは呼べない独自性を獲得したもの、と言わざるを得ないだろう。
つまり、Blueskyや旧Twitterは、ブログではない(あくまで感覚としての話だ)のだ。
元の問いに立ち返ろう。
「なぜブログ(自サイト)ではなくSNSに投稿しようと思ったのか?」
多分それは「引用し、それについての投稿をすることへのハードルが低い」ということに尽きるんじゃないか。
そしてそれこそが、これだけ多くの人が文字主体SNSをやっている人がいるにも関わらず、自サイトで何かしらを書き連ねる、というところに至らない(あるいはそちらをはじめから選択しない)という理由のひとつなんじゃないかと思う。
何もかもインスタントさを追求する時代だ。
多分ここまでしっかり読んでくれている人は、記事を開いた人のうち、半分にも満たないだろうし、途中で読むのを辞める人を責められないくらい、この世には読み飛ばさざるを得ない駄文が溢れている(かくいう自分の文章もそうだ)。
そしてそのインスタントさを追求し続けて独自性を獲得したマイクロブログこそが、現在群雄割拠する文字主体SNSであり、その境地を切り開いたTwitterだったのだろうと思う。
でも、そういうインスタントな、なにもかも「すぐ」読めて「すぐ」理解でき「すぐ」活用でき「すぐ」心に響く、そんなものばかりを求めていると、自分の人生さえ見失ってしまうのではないかと不安になる。
人生は「すぐ」終わらないからだ。何もかも「すぐ」理解できるものばかりではないし、時間がかかるからこそ、本当に意味あることとして手に入れられるものが多いということだ。
でも、多分それをわかっていたとしても、つい「すぐ投稿できるし」と、たった300文字にも満たない言葉で引用して感想を書いて満足してしまうことのほうが楽なんだろうなと思う。
それは別に悪いことではないのだが、そこに自分は少し危機感を覚えたのだ。
先日も映画「化け猫あんずちゃん」を見た。
その感想がこれである。

この時は、別途感想記事を書こうと思っていた。
でもこのpostをした途端に「まあこれでもういいか」という気持ちになってしまったのだ。
なんだかもっと色々感じたことがあるのに、それを言葉にしたいという気持ちもあるのに、それを一発目に言葉にしたプラットフォームがBlueskyであったために、その気持も言葉も霧散してしまった。
今となっては改めて書こうという気が起こらないし、多分書いてもあのときの感動をそのまま言葉に乗せることは難しいと思う。
熱量を言葉に乗せるには、それにふさわしい場所とタイミングが必要なのだということをすごく感じたし、多分そこで「SNSでいいや」「数百文字しか書けないしこれでいいや」で失われてしまった言葉がこれまでどれほどあったんだろうかと思い返した。
繰り返すが、もはや文字主体SNSは、おそらくマイクロなブログではなくなったのだ。
もっとブログエントリというのは、しょうもなく個人的で、読みづらいほど長文で、でもそこには確固たる熱量と感情と思想とがうねりながらぶちまけられている、そういうものであるべきかもしれない。