イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。
──マルコによる福音書6:41-42
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あるハンバーグ屋で、こういう看板がかかっていました。
“「食」という文字は、「人を良くする」と書きます。”
なるほど、確かにそうだと思いました。私たちにとって食べることは生きることに直結しています。
しかしただ食べればいいというわけではありません。
ある医学論文によると、心からご飯をおいしい、と思って食べる時と、ストレスをかけ、美味しくないと思って食べる時とでは、栄養の吸収率も変わるのだそうです。
私たちがご飯を食べるのは、ただ体だけを養うものではありません。それは心にも栄養をあげることと結びついているのだと思います。
聖書にはイエスの生涯と起こされた奇跡について書かれた福音書が4つ、おさめられています。
そしてその全てに書かれている物語の一つが、イエスがたった5つのパンと二匹の魚を5000人に分け与え、人々は皆満腹した、という奇跡についての物語です。
この物語の解釈には諸説ありますが、今日注目したいのは、人々が「満腹した」とある部分です。
というのは、この満腹したと訳されている言葉は、原典のギリシャ語にさかのぼってみると、「満たされた/満足した」という意味の言葉が使われているからです。
ですから、ここで人々は単に満腹になった、というだけではない、心も体もすべて満たされた、という意味が込められているのです。
なぜそういうことが起きたのか。
イエスは5000人以上の人々を前にして、神様に感謝の祈りを捧げました。そして、弟子たちにパンと魚を割いて人々に与えるようにと命じました。
イエスが配ったのではありません。弟子たちが配っています。
ここには、私たちにとって普段の食事のように、誰かとご飯を一緒に分かち合うということを通して満たされる奇跡が起きた、ということが表されています。
わたしたち、いつもどうやってご飯を食べていますか。
静かに一人で食べるのもいいでしょう。
でも出来るならば、親しい友人や家族と色んな話をしながら、「これ美味しいね」って言葉を交わしながら、笑顔で食べれば、同じご飯でも、全然違ってくると思います。
たとえ一口でも、誰かと一緒にそうやって食べたことで、空腹よりも心が満たされた──私たちがそういう体験をしたこともあるかもしれません。
「食」という文字は、「人を良くする」と書きます。
その通り、2000年以上前から、私たちにとって食べるということは、私たちの心も体も生かすために欠かせないこと、喜びと感謝に結び付いたものであったのだと思います。
この現代、誰しも忙しい日々の中に生きているかもしれません。
親も仕事で忙しいし、子どもも部活や塾があって、それぞれでご飯を食べるというご家庭もあることでしょう。
友人と共に食事をする、ということも、コロナ禍を超えてためらわれるようになった人々もいるでしょう。
でも、もし一緒に食卓を囲めたら。そこで話したいこと、いつも伝えたいと思っていたけど伝えられていなかったことを分かち合いながら、笑顔でご飯を食べる。
そういう何気ない時間が、私たち自身を満たしてくれるものになるのだということを、いつでも心に留めておきたいと思います。
体も心もしっかりと育む、美味しいご飯を食べることの大事さを私たちが忘れないように、イエス・キリストはこの奇跡を起こしてくださったのですから。