キリストの教えは、聖人たちのすべての教えにまさる。その教えの精神をくみ取れる者は、そこに隠れたマンナを見いだすであろう。ところが多くの人は、たびたび福音のみことばを聞いても、それほど敬虔の念を起こさない。それはキリストの精神から遠ざかっているからである。キリストのみことばを十分に理解してそれを味わおうとする者は、自分の全生涯をキリストに一致させるよう努めなければならない。
──『キリストにならう』 第1巻第1章2
+黙想+
出エジプト記には、イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトから脱出し、荒野で40年さまよう物語が語られる。
エジプトでの奴隷の苦しみから民を救うために、神はモーセを遣わし、民は歓喜の声をもってエジプトを脱した。
しかし約束の地カナン(パレスチナ)へ向かう荒野での厳しい道のりの中で「エジプトで奴隷になっていたほうがよかった」と神に恨み言を言い始める。そしてあろうことか、エジプトで行っていたときのように、金の子牛を神に見立て、拝み始めてしまうのである。
神は怒り、悔い改めのために民を40年もの放浪の旅に送り出す。
荒野には何千人もの民を食べさせるだけの食糧は確保できない。そこで神はマナ(マンナ)と呼ばれるパン(食べ物)を毎日降らせるのである。
このマナは、昨日の分を今日に持ち越すこともできないし、明日にとっておくこともできない。
明日食べるものは明日、きっと神が降らせてくださる、という信頼のもとに毎日感謝し、自分自身を神に委ねて人々は生きていくことを教えられる。
それは、聖書のみ言葉に聞くこともそうだ。
昨日の分を今日まとめて聞くことはできない。毎日食べなければ、魂が飢える。
だからイエスは常に祈り、常に御言葉を語り、またそれを身を以て示されるために生涯を歩まれた。
私たちもそのように生きようとするとき、その心に飢えと渇望を感じるようになるだろう。
日々のあらゆることによってその「心の満たされなさ」から目をそらしたとしても、神とその言葉という揺るがぬ柱なしには拭い去ることのできない不安が、誰しもの心によぎるものだ。
しかしそれは、私たちにとってイエスのように日々の御言葉(マナ)を聞いて生きることがどれだけ必要なことであったかを知らされることであり、イエスと共に毎日満たされて生きることへの入り口なのだ。