あなたがどんなに多く、どんなに深く知っても、あなたの生活の聖徳がそれに伴わなければ、ますます厳しく裁かれる。だから、あなたの修めている芸術や学問に慢心を起こすな。むしろあなたに与えられた知識の責任を思いなさい。あなたが多くのことを知り、それを会得したと思っても、まだあなたの知らないことのほうがさらに多いことを知りなさい。「おごり高ぶるな」(ローマ・20)、むしろあなたの無知を認めなさい。あなたよりも知識があり、あなたよりも法律に詳しい者は多いのに、なぜあなたは自分が他人より優れた者だと思おうとするのか。 何かを知り何かを学んで利益を得ようとするなら、人に知られないこと無視されることを喜びなさい。
──『キリストにならう』 第1巻第2章3
+黙想+
哲学者ソクラテスは無知の知、ということを言った。知らないということを知るために、知ろうとすることの価値を説いた。
彼は哲学者でありながら、真理を言い当てている。
私たちは常に知り尽くすことなどできないということへと戻っていくものであり、「知っている」ということは大変な傲慢であることを常々教えられるのである。
だからこそ、知識を追い求めることは、私たちに心からのへりくだりを教えられることでもあるのである。
あらゆる技術が発展し、世は情報社会と呼ばれるようになった。
情報こそが全て。知らないことは損失をもたらす風潮が強まり、知らない人から知っている人が搾取できる社会構造を生み出している。
知識が軽んじられるよりは良いが、その知識を愛によって用いなければ、何千年も前に起こった失楽園の物語から私たちは何一つ正しい道に向かえていないことを知らされるだろう。
何かを知りたいと願うなら、それが他者からの賞賛や名誉のためにではなく、神が造られたこの世界をより深く知り、よりよく生きるためにその努力を費やすべきである。
賞賛は報酬ではなく結果であるべきで、他人から与えられるものによって驕り高ぶる私たちを諌めるよりは、それが知られないほうが私たちにとって幸福なことだろう。