三行日記2026/01/06〜01/12

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2026-01-06(火)

来年度に向けての準備が大詰めを迎えている。学校も教会もとにかく人(教師や牧師)が足りないという問題がずっとあって、解決策を見いだせないままなんとかしのいでいる感じがある。
「収穫は多いが働き人は少ない」という聖書の言葉はよく後半ばかりに目が向けられるけれど、前半の喜びに目を向けるという前提のもとに後半が語られていることをおぼえたい。
学びや神様の救いを必要としている人々(収穫)は多いのに、それを喜びとして働く人がなぜ少ないのか。それはきっと、今多くの人々が、自分よりも周りの人々の幸せを願うことができず、ただ自分の満足のためにしか動けなくなる貧しさを抱えているからではないのかとも思う。

2026-01-07(水)

「異国日記」のアニメ版が始まったと聞いて1話を見たけど、やはり何度見ても美しすぎて、そしてとても救われる気持ちになる。
漫画原作を読んだときから、「日記を書くといい」と槙生が朝に勧める時、「書きたいことを書けばいい 本当のことを書く必要もない」と伝えたセリフがとても印象に残っている。
この世界をどのように見るかということは個々人の自由に委ねられて当然のことであって、それはありのままの自分を認めてあげることでもあるのだと、傷ついた自分を癒すための一歩はそこにあるのだ、というメッセージが「いつか悲しくなった時 それがあなたの灯台となる」と続く言葉にも響いていて、ああ、そのとおりだ、と思うのだ。

2026-01-08(木)

ハートピアスローライフという新しいゲームがリリースされてプレイしたらガッツリやってしまった。
こういうセカンドライフ系は永遠にやってしまう。しかも基本無料なのに可愛い服とかも普通に買えるので、逆に課金したくなっちゃうよなと思う。
これが返報性の原理ってやつだよな。

2026-01-09(金)

昨日からハートピアスローライフばかりを開いてしまう。
プレイ時間を見たら2日間で4時間もしていた。
年末年始の休みが終わって忙しいのにいったいどこにそんな時間があったのかわからないけどたぶん相対性理論(?)

2026-01-10(土)

受験シーズン。義務教育から中学から私立を選ぶ理由の一つに中高一貫進学を狙うという事があるだろうけれど、その内実としては「義務教育は成績が悪くても進級はできるが中高一貫の私立だと中学の頃から丁寧にフォローが入る」ことへの期待があるように思う。
実際それは少子化の中で生徒数を確保する、という経営的な思惑もあるのは否定できないけれど、キリスト教主義の学校としてはそれよりも本当に生徒を「この子が将来つまづかないように、自分で人生を切り開ける力を付けられるように」と、身を粉にして親身になってくれる先生が多い。
教員の現場はブラックだなんだと騒がれる世の中だけど、どの職業だってお金のためだけに働いていける人なんてそもそもいないんじゃないか。少なからずそこに喜びとか楽しみとかが求められるものだし、人を育てるという働きほど、その「お金以外のリターン」が大きいものはないと思う。きっとその喜びを知っている人でなければ、教師という働きを一生の仕事にできはしないのかもしれない。

2026-01-11(日)

もう4年近く愛用しているPixel6のケースを新調した。
そろそろ買い替えようか、いやまだ使えるから……という逡巡を繰り返しているのだが、そのたびに新しいスマホの値段を見て後ずさっている。
もう1年、壊れるまで頑張ってくれという祈りを込めながら買ったときからお世話になっているspigenのケースを選んだわけだが、この4年、しょっちゅうスマホを落とす割に一切割れや傷が付かないのでスマホケースがspigen一択になりつつある。頼むぞspigen。

2026-01-12(月)

毎年、この日は20歳を迎えた子どもたちにお祝いのための礼拝をお願いされている。
自分が20歳だった頃を思い出すとすごく生意気だったし、根拠のない自信と傲慢さに満ち溢れていたように思う。
でも、今はそれがわかるし、自分を振り返るには時間が必要だ。20歳になったばかりの子たちにとって今すぐには伝わらないかもしれないけれど、「ああ、あの時こういう話を聞いたなあ」と受け止められる時がいつか来てくれることを祈りながら語るのは必要なことだろうなと思う。

今週の一言

今の子どもたちというのは恐ろしい時代に生きている、と思う。
自分が生きていた頃は個人名をインターネット上に共有されて見知らぬ人から袋叩きにあう、ということはあり得なかった。
何かを失敗し過ちを犯しても、それに対する罰と悔い改める余地のバランスが取れていた。
でも、ひとたび間違いを犯せばそれは瞬く間に共有され、個人としての尊厳はあっという間にはぎ取られていく。
「悪いことをしたのだから当然だ」という論理がまかり通るのであれば、人権とは何なのだろう。
だからこそきっと、まずその人を世間が許さない、だから近しい周りの人々も赦すことができない、悔い改めてもそれを受け入れてもらえない社会へと向かっているのではないのかと思う。そのような社会は、余計に再犯を生み出していく。
間違わない人間などいない。間違いを受け止められない社会は、反省することさえ受け入れられない管理社会でしかない。
間違わない人間などいないのに、間違いを犯さない人間だけが管理できる社会のかたちに向かっていくのはナンセンスなことだ。

キリスト教はゆるしの宗教だ。しかしそれは過ちを見過ごすのではない。
過ちは戒めるべきだし、しかるべき裁きがあるだけでは世は良くならない。
その先で「次こそは間違わないようにしよう」と立ち上がって生きていける、そんないのちの尊厳を戒めと同じように大事にする世界を望んで、イエス・キリストはこの世に来たのだ。