“救い”は確かにある──「EasyDeliveryCo.」感想と考察


「EasyDeliveryCo.」というゲームをクリアした。
steamでのユーザー評価がすごく良いということで気になっていたのだが、日本語対応・スマホアプリ移植版が出たということでプレイ。

一言で感想を言えば、本当に最高のゲームだった。
途中まではネタバレなしで書いていくので(ネタバレは折りたたんであります)、気になった人は是非プレイしてほしい。

PC(Steam)PS5XboxSwitchiOSAndroid版のそれぞれのストアリンクはこちら。
自分はAndroid版でプレイしました。
上記はすごく良い記事なのでゲームの紹介はこれを読んでくれたら十分かなと思っているけれども、せっかくこの記事を読んでくださっている人もいるので、簡単にまとめたい。

・どんなゲーム?

配達業を担当している猫ちゃん(プレイヤー)が配送を依頼される荷物を運んで、それでお金を稼ぐ配達ゲーム。
配達に使う軽トラックがなかなか乗り心地(運転のフィーリング)が良くて、結構無茶な運転でも大丈夫。
横転したりひっくり返ったりしても、ちょっと斜めだったりしたらなんか元に戻ってくれたり、雪の崖をゴロンゴロン転がっても傷一つ付かないしゲームオーバーにはならない(高すぎるところから勢い良く落ちると炎上してリトライになる)。

なので、ゲーム的な難易度はすごく簡単。
レースゲームのプレイヤースキルが低くても心配ない。
エンディングまでの時間はだいたい8時間くらいでした。

配達がてら住民との会話が挟まるんだけれども、その会話が結構いい。
それぞれキャラが立っていたり、くり返し話しかけることで、他の住民との関係が進展したりするのを傍目に見ているだけでもいいし、ちょっと考えさせられるようなことを語ったりもする。

「夕日を見たことはあるか?
ワシがこれまで見てきたものの中で一番美しいと思ったものだ
さっきまでそこにあると思っていたらいつの間にか消えてしまう
ある意味ワシらのようだと思ったな」

なんて話す猫も出てくる。
終盤になるとちょっと切ないことを言う猫もいるし、そういう意味ではノベルゲーム的な捉え方もできるかもしれない。

・ゲームで知っておきたいこと

・体力ゲージとガソリンゲージ

分かりづらいのが体力ゲージとガソリンゲージ。
小さいしパッとわかるような見た目じゃないので、最初は分かりづらいかもしれない。

ガソリンは右側の「F」と「E」の文字があるメーターで表示されている。
満タンだとFのところにカーソルがあり、Eにくるとガソリン切れだ。ガソリンが少なくなるとスピードが出せなくなる。
ガソリンスタンドの店員に話しかければ、自動で引き落とされて満タンになる。
満タンに等しいガソリン代を所持していないと、持っている額全額で入れられる分のガソリンが入る。
注意点は、話しかけた時点でガソリンが購入される、ということだ。
ガソリンが入っていないと、車の中でも暖房が効かなくなる。
外を歩いているとだんだん画面が凍って暗くなり、凍りついていって一旦ゲームーバーになってしまうので注意したい。
とはいえ、ゲームオーバーになっても謎の迷路のような場所を一定時間うろつくと元の場所にすぐ復活できる(ペナルティなし)ので、そんなに気を張っていなくても良い。

左側がプレイヤーの体力だ。最初はエナジードリンクを飲むと回復するが、中盤に出てくるコーヒーだともっと効率が良く、お茶は体力の回復量は少ない代わりに、体の温度を保ってくれる効果がある。
プレイヤーは配達人なので、体力がないと重い荷物を配達できないというデメリットが発生する。
また、体が冷えるのが早くなるし、移動速度も遅くなる。小まめに飲もう。

・序盤の進め方

基本的な流れは

①メニュー(パソコンのアイコン)から「オシゴト.exe」を起動し、配達の仕事を選ぶ。
②配達元でブツを受け取る
③配達先までブツを落とさずに(1個残ってれば他は落としても良い)配達する
④稼いだお金でエナドリなどの飲み物、ガソリンを買う

の繰り返しだ。
プレイヤーに睡眠は必要ない。この理由も後からわかる。
そして最初の配達が終わったあたりで登場する「MK」という犬のキャラクターが、ストーリーを進める目標を指定してくれる。
まずはMKに教えてもらえた「ライター」を買うためにお金を稼ぐ。
そのライターでトンネルの前の木を燃やすと、新しいマップに行けるようになる……というような流れだ。
その他にも手に入れられるアイテムがいくつかあるので、配達を楽しみながら進めていこう。

・終盤の進め方

エンディングは複数あり、迷うかもしれない。
詳しい内容は触れないが、簡単なガイドを置いておきたい。

ちょっとネタバレなので畳んでおく。

エンディングは3つある。
「再起動(リブート)」
「水力を停止(シャットダウン)」
「復旧と再起動(リストア)」
だ。

順当に行くなら、上から順に見ていくのが良いと思う。
エンディングまで到達したら、MKがいた小屋に行ってみよう。
「再起動ED」と「復旧ED」、それぞれのEDごとに違う話が聞けると思う。

……さて、これから下はめちゃくちゃネタバレを含めた感想と考察が書いてあるので、ぜひエンディングを全部見終わってから読んでほしい。

以下、全エンディングを見た人向けの感想と考察

◆ネタバレあり感想

本当にエンディングに向けてのシナリオは圧巻だった。
MKの語りと共に、静かに、この世界の謎が解き明かされていく。
この世界にいる住民たちは皆「ドローン」と呼ばれていて、実際に生きているわけではない。
しかし、MKは「機械学習エージェント」と言っているし、住民同士が関わり合い、その関係性を深めていることから、単なるドローンと言うより、アンドロイドに近いのかもしれない。
彼らがドローンと呼ばれているのは、ある一定の目的のためだけに作られているからだろう。それはつまりそれぞれの店の店員として、だ。本来はそれが役割であるはずだから、プレイヤーが見ているときに店の外に出てくることは基本的にない。
しかし彼らはそれを超えて、関わり合う相手を求めているし、関わり合っていることが会話から垣間見える。

彼らの動力源が水力発電の電力であり、その電力によって動かされている工場内のサーバーがその実態だ。
そのサーバーを止めればシャットダウンすれば 住民たちは動かなくなってしまう。
そしてその記憶は、クラウドコンピューティングエージェントによって保たれていたはずだったけれど、イージー社はそれを止めてしまった、とMKは言う。
おそらく何かドローンの動作に不具合が起きても、再起動すれば治り、住民がそれぞれに培った記憶や関わりはクラウドのエージェントで復旧することで、永遠に保たれ続ける街がかつてはあったのだろう。
そしてそれを保つために、高温になるサーバーを冷やし続けるために、この世界はずっと雪が降っているのだ。

もしかしたらもっとこの世界は高グラフィックで、もっと広がりのある世界だったかもしれない。
しかし既にこの世界は管理を引き継いだイージー社によってディストピアのように管理され、どんどんコストが削られていっている。
住民一人ひとりの幸せのためではなく、この世界を維持するためだけの人員と機能が保たれる以上のことは整えられない世界になっている。
だから、ローポリゴンで、何度クラッシュしても凹みさえしない軽トラック、自由に出歩く住民が一人もいない、店員のみが生き、多くの民家には入れない──そんな世界の中で、かつてセブと呼ばれていた「失われた配達員」の代わりとして、起動された存在があなた(プレイヤー)なのだ。

そしてもはや、住民たちに不具合が起きても、記憶を保持し復旧させる役割を持つクラウドコンピューティングエージェントはもう停止させられている。こうして常にゼロから積み重ねをしていかなければならない再起動リブート ループの中にあるのが、作中の背景設定なのだ。

これをどうにかしようとしているのが、イージー社の元メンテナンス担当であったMKだったわけだ。
だから彼だけアバターが犬型なのであり、おそらく住民よりももう少しだけ上位の管理権限を持っている。
つまり、マップシステムを復旧させたり、世界そのものを復旧させるための方法を俯瞰して知ることができる、という部分にそれが表されている。
しかしそれでも、手が届かないところがある。水力発電の建物や、工場などの世界を管理しているキーとなる建物に踏み込むことだ。
その理由は語られないが、考察のほうで深めてみたい。

そのような意味で、「なぜローポリのゲーム的なシステムで動いているのか」「なぜずっと雪が降っているのか」「プレイヤーに似ているとされるセブとは誰か」「ストーリーの目的を与えてくれるMKとは何者で、何が目的なのか」……様々に浮かんでくる疑問を「これはそういうゲームだから」で片付けないで、ちゃんと理由を語って終わってくれたというところに感動している。
普通に配達ゲームとしてもなかなか快適(トラックの運転のフィーリングとか)だったので、チルなゲームとしても結構完成度が高いのもいい。
そうやってのんびり配達をしたり、ショートカットできる道を見つけたりする楽しさを感じている間に、段々とストーリーが進んでいくのもちょうどよいペースで展開されていて、飽きることなくプレイできたのは良かった。

◆考察

これは生きるということの救いについて語ったゲームだった、と思う。

工場において水力発電をシャットダウンすると、街の住民たちは皆動かなくなる。それはつまり彼らにとっての「死」だ。そこにあるが、生きてはいない。
生きているということは、交流するということだ。それはプレイヤーとの対話であり、その対話から明らかになる、少しずつ変化をしていく他の住民たちとの関わりがあってこそ、彼らは確かに「生きて」いた。

しかし、彼らはしばらく関わりを重ねると、エラーを吐き始める。
だんだんと同じことしか語らなくなり、最終的に定型文しか話せなくなる。その最期の時間が近づいていることを察している者もいる。
このエラーはつまり、彼ら自身が望んでいないコミュニケーションにおける不和が起こっているということであり、自らそれを解消することはできないことを意味している。
シャットダウンはしていないので動いてはいるが、コミュニケーションができないため、これもまた一つの「死」だ。

これを解消するには、ゲーム内では再起動(リブート)か復旧(リストア)という2つの選択肢がある。しかし初めて工場に足を踏み入れた時、リストアの方法は「リカバリーディスクの有無:なし」という文字列にしかヒントがない。
したがって、水力発電を止めて住民たち全員をシャットダウンをするか、それとも再起動するか、という選択肢になる。

再起動すると、住民たちはまた会話できるようになるが、プレイヤーだけは知っている。
「その会話は既にした」ということを。
忘れているのだ。これまでのことを。

対話、コミュニケーションというものは、それ自体ではなくその積み重ねこそが本質だ。
同じ言葉を繰り返し交わし合うだけでは、コミュニケーションたりえない。つまりそこに、「信頼」のような関係性は醸成されないのだ。
コミュニケーションとは、積み重ねられ、展開され、深められていって初めて意味をなす。信頼関係というものを生み出すものになる。
しかし再起動された住民たちは、一度培われた信頼関係──他の住民たちに対して、そしてプレイヤーとの間においても──を、すべて失った状態になってしまうのだ。

信頼関係をある一定にまでしか築くことができない、それ以上は自分の力ではどうしようもできない行き止まりならぬ「生き止まり」の人生(猫生?)の限界に、住民たちは囚われてしまっているのだ。
再起動は、不老不死、永遠の命への道ではない。死んで初めから繰り返しているだけの、永遠に関係性を失い続ける苦しみから逃れられない悲しいループでしかない。

だからこそ、このループを止める方法をMKは示唆することで、再起動EDはその生の限界を提示するのである。

しかし、この工場の制御端末にあったリカバリーディスクを質屋で手に入れると、状況は一変する。
今まで質屋にはこのディスクは置いてなかった。
ループする世界の苦しみから逃れるための唯一のアイテムが、よりによって「質屋」で手に入る、というところがすごく興味深い。
つまりそれは、誰かが販売しているのではなく、誰かが所有していたものであるということだ。
誰のものだったのかはわからないし、語られることはない。

しかし私は想像する。
すべてを復旧リカバリー するそのディスクはきっと、この世界におけるループとシャットダウンという死を目の当たりにした、われわれプレイヤーが心の奥底で感じる衝動──「こんな悲しいことってあるか」「どうにかできないのか」という思いを、具現化したものではないのかと思う。
それは作中では亡きセブが抱えていた思いであり、MKが抱えていた思いであり、それを手伝うようにして動いてきたプレイヤー自身が自然と同じように感じていくであろう想いだ。
それがカタチになったものこそ、デウス・エクス・マキナのような一発逆転の救いのアイテムとして「質屋」に置かれたのではないのかと、思えてならないのだ。

リカバリーディスクを使って人々を「復旧」すると、人々は生き止まりのループから解放される。
これまでの記憶、積み重ねてきた関係性までもが「復旧」されるのだ。そして何よりも、全く新しい言葉で対話するようになる。
死を乗り越え、永遠に展開し続ける、永遠に深まり続ける関係性が与えられる。
それこそがプレイヤーがもたらした彼らにとっての救いであり、彼らは自らは知らずして、救われていくのである。

だから、私はこれを、生きることについての救いの話だと思った。
つまりこれは、キリスト教における「永遠の命」の救いに重ねれば、きれいに説明できるものだと思うからだ。

私たちもまた、「生き止まり」の人生に生きている。誰しもいつかは死ぬ。だから永遠のいのちを望む人々は多い。それはつまり「自己の消滅」への恐れがその根源にあると思う。
わたしという存在、それを証ししてくれるものはつまり他者とのつながりである。
「人は二度死ぬ、一度目は地上の命を終えた時、二度目は、誰もその人のことを思い出さなくなった時」とウィリアム・フォークナーは言った。
思い出されるためには、他者と対話をし、関わりを深め、信頼を培わなければならない。
そのつながりが、わたしという存在を永遠のものにしてくれる。
しかし、単なる不老不死は決してそれを実現しない。関わり合うすべての人が不老不死でなければならないということもそうだが、私たち人間の脳は、長くても百数十年分のメモリーしか蓄えることができないと言われるからだ。
まさに医学が、私たちの力の限界において実現させる不老不死、永遠の命は、このゲームにおける「再起動」に過ぎない。すべての人が不老不死になっても、脳の細胞の限界によって、そのつながりはいつか途切れたり、リセットせざるを得ないときを迎えてしまうのだ。
それこそが、聖書が教えている、人の生における罪がもたらす限界であり、救いのない人生だということ──再起動リブート EDが描き出した世界なのだ。

しかし、キリスト教における死と永遠の命は、そこから救い出してくれる。
個人という人格と経験をそのままに、死を乗り越え、永遠の命/まことの命を与えるものであるからだ。
ここでの永遠まこと の命とは、この死を乗り越えるということの中に、「罪」を取り除くということが含まれている。
なぜならパウロも手紙の中で「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマ6:22-23)」と言っているからである。
ここで言う永遠の命とは、必ずしも天国という名の全然別の場所に生まれ変わることを指しているのではない。既にこの世の命の中に永遠の命は息づいているとされている。
その永遠の命が与えられることによって、死さえも罪が与える最期の悲しみに過ぎないものになる。その先は、罪が取り除かれた永遠の人生が始まるからだ。
パウロはこの永遠の命を「神の賜物によるもの」と言う。
人間の力、この世界に存在する力では成し遂げられない他の力がなければ、この罪のループから抜け出すことはできない。その他の力とは、このゲームにおける「リカバリーディスク」という形で表現されている。
そしてそれは、ゲームの世界の外側で世界そのものをどうにかしようとする力によって──いわば神様の立場にいる者にしか成し遂げられない救いリカバリー が具現化させられたものなのだ。
だから、この罪の死こそがシャットダウンEDであり、真の意味での永遠の命に生きるということが実現するのが、リカバリーディスクによる復旧ふっかつ EDなのである。

わたしたちの命、その尊厳は、何があったとしても尊重されなければならない。
失われてはならない尊いものであり、それは私たち個人に帰属し、他者との関わりのうちに保たれるものだ。
だからこそ、イエス・キリストという神は、「神の国──神の救いの実現している場所──はあなたがたの間にある(ルカ17:21)」と言った。私たちが常に、誰かとの関わりの中に生きていくということを通して救いがもたらされることを、イエスは見つめていたし、それは神さまと私たちとの関わりにおいても同じものであった。
神さまは私たちの心を、悲しんだり苦しんだり、別れを惜しんだりするその心を、決して見逃したりはしない。
「こんな悲しいことがあってはならない」と、罪に陥った人々をずっと救いたいと願ってやまない。
それは自分の命さえも十字架に捧げてもかまわないと願うほどの愛だったと、聖書は語る。

このゲームをプレイしたわたしたちも、大なり小なり、同じようなもどかしさを、悲しさと寂しさを、無力感を、ゲームの中の住民たちに対して感じたのではないだろうか。
それはまさに神さまが罪の中に生きる私たちに向けている眼差しだ。み心の一片を垣間見たということなのだ。
だから、プレイヤーである名も無き黒猫だけが、MKでさえ入れなかった場所へと向かっていける。プログラミングの枠を超えて、この世界そのものに干渉できる。この世界の住民たちを、救えるのだ。

すべてのことに、理由がある。
しかもそれは、私たちの世界を鮮やかに描き出す形で、整えられている。
「Easy Delivery Co.」は、そんな素晴らしいゲームだった。

感謝と敬意を持って、このゲームに惜しみない賞賛を送りたい。

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