一日一章・マタイ福音書解説(第27章)


マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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マタイ福音書27章本文

◆ピラトに引き渡される
27:1 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。
27:2 そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
◆ユダ、自殺する
27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
27:6 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、
27:7 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
27:8 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
27:9 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。
27:10 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
◆ピラトから尋問される
27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
27:12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
27:13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
27:14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
◆死刑の判決を受ける
27:15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
27:16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
27:17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
27:18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
27:19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
27:20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
27:21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
27:22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
27:25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
◆兵士から侮辱される
27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
27:28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
27:29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
27:30 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
27:31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
◆十字架につけられる
27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
27:36 そこに座って見張りをしていた。
27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
◆イエスの死
27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
27:48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
27:51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
27:54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
27:55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。
27:56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
◆墓に葬られる
27:57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。
27:58 この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。
27:59 ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。
27:61 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。
◆番兵、墓を見張る
27:62 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」
27:65 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」
27:66 そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。


ちょこっと解説

当時のイスラエル王国はローマ帝国の支配下にあり、基本的にはユダヤ人の問題は最高法院が裁く管轄になっていましたが、ここで祭司長たちをはじめとした最高法院の人々は、異邦人であるローマの法で最高の刑罰である十字架刑にイエスをかけて殺そうと画策します。こうすることによって、ユダヤ人と言う信仰の民として最も屈辱的な死を与えようとしたのです。
ローマの総督であるピラトにイエスは送られます。しかしピラトは、イエスに罪を見いだせず、困惑するのです。
ここでピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と問われ、イエスが「それはあなたが言っていることです」と答えているのは(11節)、はぐらかしているのではありません。
イエスが王、つまり神様が地上に遣わしたメシアであり、天の国を人々に与える永遠の王であるのかどうかは、一人一人がイエスをそのように受け入れるかどうかにかかっています。ピラトはここで「祭司長たちがそう言っていたから」尋ねているに過ぎないことを気付かせようとしているのです。つまり、「あなた自身はわたしをどう見ている?」と暗に問いかけているのです。

自分の意見を持つことよりも、周りが言っている一見正しそうに聞こえる意見に迎合する方が楽ですし、それが間違っていたとしたら「いや、これは自分の意見ではないし」と責任を放棄することができます。
実際、ピラトが必死にイエスの無実を群衆たちに呼びかけても、その正当な理由を出さずに「十字架につけろ(23節)」と叫んでいるのは、まさにそのような態度に外なりません。
神様は常に、「あなたはどう思うか、何を信じ、何を選ぶのか」を見ておられることがイエスの姿にあらわされています。そこに、私たちの罪は浮き上がってくるのです。
そしてピラトがイエスの無実を証明することを諦め、「お前たちの問題だ(24節)」と逃げていることからも、イエスを十字架へと追いやったのはユダヤ人だけではなく、異邦人であるピラトもまたそこに関与していることが表されています。
こうして、イエスの十字架によって赦される罪は、ユダヤ人だけでなく、異邦人すべてに拡大される兆しが示されているのです。

イエスが兵士たちから暴力を振るわれ、その衣服を奪われ、侮辱されていく姿、そしてイエスが十字架上で叫ばれた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉はすべて、詩編二十二編にそのまま重なります。
「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。(詩22・19)」は兵士たちの振る舞いに重なり、「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。(詩22・9)」は祭司長たちや律法学者たちの言葉に重なります。
誰もかれもが「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。(詩22・8)」ようにイエスを見ていたのです。
だからこそ、そのような中でイエスは、この詩編の冒頭を口にされました。
「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。(詩22・2)」
これはイエスの神への必死の祈りであり、詩編を知るユダヤ人たちへの悔い改めへの告知でもあるのです。

この詩編は最後に、それでも神様は救ってくださるという確信と賛美によって締めくくられる詩編でもあります。「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。(詩22・25)」
ですからイエスは、最も神の救いから遠い、むごたらしく人の命の尊厳を踏みにじる現実の中にあってなお神様はその祈りを、「助けを求める叫びを聞いて」くださるお方であることを教えるための言葉であったのです。

イエスが十字架上で息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が…裂け(51節)」とありますが、これはイエスの父である神様の深い悲しみを現わしています。
当時の人々が深い悲しみや怒りを感じる時、旧約聖書では「衣を引き裂く」という表現で表されるからです。
それと同時に、神様が神殿という場所から自ら出て、イエスのように人々の間に生きるお方となった、という解釈がされる部分でもあります。
それによって、異邦人であるローマ兵がまず「本当に、この人は神の子だった」という真理に到達するのです。
ペトロが信仰告白した時にもイエスが「このことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ(マタイ16・17)」と言った通り、私たちがイエスを神の子であると受け入れ、信じる時、それは私たちの努力ではなく、神様の働きが起こっているということなのです。

イエスが死んだのは、金曜日だったと言われています。土曜日はユダヤ人にとって安息日にあたるため、イエスを葬ることも、安息日の前日に済ませてしまわなければなりませんでした。
最高法院の議員の一人であり、またイエスの弟子でもあったアリマタヤのヨセフの申し出によって葬られたあと、祭司長たちの申し出により、その墓は厳重に閉じられました。
イエスが三日目に復活すると言っていたことを聞いていたからです。
徹底的にイエスを否定し、万に一つもその影響を残すことがないように、彼らは手を尽くしたのです。そこに、あれだけのイエスの呼びかけと、神殿の垂れ幕が破れ、異邦人が十字架のイエスを救い主として認めるという大きな出来事があってなお、彼らがまだ頑なであったことが示されているのです。

これほどまでの侮辱と苦痛、体と心の苦しみの極致に留まってなお、イエスは彼らに反抗したり、憎しみや呪い、その罪を断ずるようなことはなさいませんでした。
暴力でねじ伏せた暴力は、さらなる暴力を生むだけであり、それゆえに神の力をもって人の暴力をねじ伏せることはなさらない、ということの表れなのです。
だから神様は人の罪を見つめ、忍耐し、ゆるし、必死に呼び掛けることで、悔い改めを待つという「愚かな(1コリ1・23)」手段を取られました。
どれだけの痛みと犠牲を払ってでも、そうすることによってのみ、人が、罪とそこから生まれるあらゆる暴力から解放されることを、知っておられたからです。
だからこそイエスの十字架には、神による人間への罪の赦しが示されている、と捉えられることになりました。

イエスの姿と言葉を通して、徹底的な人間へのゆるしを表明することによって、誰もが持つ人の罪の所業を振り返らせ、悔い改めに導こうとされている。
そう信じることによってのみ、荒れ狂う波のようなこの現実の中でさえ揺らぐことのない平安と慈愛を、自分の中に、そして関わりあう人々との間に保ち、それを押し広げる者となっていく。
それこそが神様が天地創造の時から人に望まれた生き方であり、そこにこそ神様がおられ、神様が働かれているということが、惨たらしい絶望的な現実の中でなお起こりうることを、イエスは私たちに示してくださったのです。
そしてその神の御心は、イエスの死を最後まで見届け、その亡骸を引き受けていった婦人たちの姿に、響き合っているのです。

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