マタイ福音書通読解説執筆を終えて
この8月、一日一章ずつ、マタイ福音書の解説記事を書いてきた。
たまたま「8月は毎日ブログを書こう!」というイベント・ブローガストを知ったものだから、書くなら(そして読んでもらうなら)今しかないな!と見切り発進で始めた企画だったのだが、無事に最後まで書き終えられて本当に良かった。
正直こんな機会がなければ書き上げられなかっただろうと思う。
と同時に、毎日更新という縛りのために、解説と言いながら結構自由に書いてしまった部分もあったように思う。
精査できていない部分や、書きながら「そうか!これがここでつながってるんじゃないか?!」という突然のひらめきで解釈を広げて書いている部分もあって、かえって読み手を混乱させていないかちょっと不安もある。
少しでも福音書通読の手助けになればと願ってやまない。
マタイ福音書は旧約聖書に親しむ人に向けて書かれたイエスの生涯についての物語だ。
旧約聖書から通読したあとに最初に触れる福音書としては最適だから、きっと新約聖書の一番最初に置かれている。
そうしてマタイ福音書はイエスの系図をまず初めに語るのだが、初読の人はほぼ確実に「なにこれ?何の意味があるの?」と思うだろうし、あるいは読み飛ばすかもしれない。
しかし、その「なぜそこにその言葉が書いてあるのか?」という「why?」の視点からでしか、聖書のメッセージは受け取ることができないと思っている。
私たちの世界は科学的な視点が一般的になった。それは「How?」の視点だ。
つまり、「どのようにして」──正確性、実証性、整合性を重視する視点で、私たちはこの世界をとらえることが多い。
特に、AIが進むなかで増えてきた諸々のフェイクによって、より必要になってきた(なってきてしまった)視点かもしれない。
そのような視点で聖書を読むと、およそ現実の世界に適応するに堪えないおとぎ話かキレイゴトに見えるだろう。
しかし聖書はそのように「How」の視点で読むために書かれていない。「Why」の視点で読むように書かれているものだ。
物語の整合性や現実味ではなく、なぜこの物語がこのように書かれたのか?という問いかけをしていく。
イエスはなぜこのように言ったのか? なぜこのようにしたのか? なぜ弟子たちはイエスとすれ違い、裏切ってしまったのか?
そう問いかけることでしか、2000年前の書物は私たちにメッセージを返してはくれない。
逆に言えば、そのように聖書を読むという行為こそが神への問いかけ、祈りの実践でもあるということなのだと思う。
山のような情報だけが垂れ流されていて、それをただ全部受け取るか、あるいはその中からザッピングして必要なところだけを拾っていくのか。そんな今の時代の情報取得の方法と、聖書の読み方はまるで違う。
私たちが積極的に問いに行かなければならない。「分かりづらい」し「理解するには当時の背景や言語の知識が必要」となると、それで挫折する人も多い。
でも、本来すべての有益な情報とは、そういうものだったのではないか。
最近の世界は情報があまりにも簡単に手に入りすぎてしまって、そこにたどり着くまでの過程をスキップできてしまう時代が来ている。
AIによってそれはより加速された部分もある。
でも、それは翻ってみれば「なぜ?」という問いを私たちが持ち続けるということが出来なくなってきている、ということかもしれない。
「わからないことを、わからないまま抱え、問い続ける力」──ネガティブ・ケイパビリティと呼ばれて注目され始めてはいるが、それに立ち返るという必要性が問われている時点で、多くの人々が「問う」読書、ということからも離れつつあることの証左だろう。
聖書は、私たちに本来の「知恵」のあり方と、それを手に取るための方法を教えてくれる。
そしてそれは、その内容が私たち自身の生き方を示す真理であるということのみならず、そこにたどり着くまでに考えさせられるという過程さえも提供してくれているのだ。
まさにそれは、いつの時代においても人間にとって必要不可欠な「考える」力を保つために役立つ書であるとも言えるのではないだろうか。
短文テキストSNSよりもショート動画がトレンド、という時代の中で、そういうことをじっくり考えさせられ、そしてそれを共有し、また他の人がそれを読んで考える機会を呼び起こされていく──その流れは一見時代を逆行しているようでいて、すごく大事なことなのだと思う、
年々加速するインターネットのなかで、私たちが本来生きて、深く考え、受け止めることができる「遅いインターネット」を保ち続けること。
その最後の砦は、もしかしたら個人サイトなのかもしれない。
ブローガスト2026に参加して
ブローガストというイベントに参加できてよかったな、と思う。
基本はBlueskyにいるのでブローガスト用のフィードを使わせていただいて、いろんな人のブログに出会えたのは楽しかった。
obsidian使いに出会えたのもうれしかったし、新しく導入したという人もいた。
十人十色のobsidianを見るのも楽しいのでどんどん自分のobsidian作業環境を教えてください。
自分はマタイ福音書通読記事でブローガストに参加したということにしていたのだが、実際のところ「これはブログ記事か…?」という感じもあり、ブローガストと呼ぶにはちょっと異端派だったかもしれない。
ブローガストは終わらない
これはブログ歴の浅い一個人からブローガストに参加している方への提案なのですが、ブローガストが終わった後、
「# あおぞらブログ部」
「# 青空ブログ部」
「# ブルスカブログ部」
いずれかのハッシュタグを使ってBlueskyにブログ記事を投稿してみてほしいなと……
ブローガストが終わった後も、いろんなジャンルの人のブログ記事を眺めたい……
でも遠くから「知らない人」のまま眺めたい気持ちが強くて、フォローをしてつながりたいわけではない……
そんな欲を抱えておりまして。──ブローガストが終わった後を考える|ゆきどけみず
このように、ある方が投稿をしてくださった。
それを受けて、「あおぞらブログ部」フィードを作らせてもらった。
「ブローガスト」「あおぞらブログ部」「青空ブログ部」「ブルスカブログ部」の文言+それぞれのタグが投稿内にある場合は全部拾うfeedになっているので、今後もゆるく見ていきたいと思う。
Skyfeedで作成したfeedなので、Skyfeedが落ちたら止まります。
Tomosはいいぞ
このブローガストの間に、てがろぐに書いていたものをTomosに移行した。
今のところすごく安定していて、Obsidianからパッと記事を送信できるところも気に入っている。
立ち位置的には書き散らし記事を気軽に上げたりするミニブログ的な場所として、「さあ書くぞ!」と意気込んで書いたりしない場所にしていきたい。
感覚としては、「3行でも更新できるブログ」として使っていきたいな。
この記事も最初はTomosブログの「seelsorge」にアップしようかと思っていたのだが、マタイ福音書通読解説記事をアップしていたのはこちら「kyrie」のほうなので、こちらに締めくくりの記事を書いたほうがいいかな……と思ってあげている。
Tomosはいいぞ。
そういうわけで、8月も明日で終わりですが、この記事がブローガスト最後の記事になるかなと思います。
お読みいただきありがとうございました!
引き続き、ブログを書く人々との新たな出会いとつながりが保たれますように。
