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祈らされる場所


そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

──マルコによる福音書1章9-15節

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今日の福音書の日課として選ばれている「荒れ野の誘惑」の箇所は、三つの共観福音書すべてに収録されている物語だ。しかし、マルコ福音書は、マタイとルカとは違い、悪魔サタンからの誘惑をクローズアップせず、簡潔に記している。
それは、マタイやルカが悪魔とイエスとのやりとりを通して伝えようとしていることとは別のことを、マルコが伝えようとしていたからである。では、それはいったいどのようなことだろうか。
そのヒントは、マルコ福音書にたびたび登場する「荒れ野」という言葉にある。

この「荒れ野」と訳されている言葉は、原典のギリシャ語では「エレーモス」という言葉である。しかしこのエレーモスは、文脈によって別の訳語も与えらえている。
その訳語とは、「人里離れた所」という言葉である。

「人里離れた所」という言葉は、イエスが「祈っておられた(マルコ1:35)」場所としてよく登場する。
また、5000人以上の人々を5つのパンと2匹の魚で満腹にするという奇跡が起こったのも、この「人里離れた所」が舞台であった。この時イエスと弟子たちは、集まってきた人々の対応に忙しく食事をする暇もなく、疲れ果て、休息と祈りの場所として、「人里離れた所」へ行こうとしていた(マルコ6:31)。

しかし、そのようなイエスと弟子たち一行を大勢の人々が追いかけてくる。そこでの人々への対応が、イエスと弟子たちとでは対象的に映る。
イエスは人々を深く憐み、いろいろと教え始めている。一方で弟子たちは「人々を解散させてください」とイエスに願い出ているのである。
弟子たちの申し出には、疲れ果てて空腹で、早く休みたいのに、人々が集まっているせいでなかなかそうできず、やきもきしている様子が伺える。

このような用法から、エレーモスをどのような場所としてマルコが描こうとしているかがわかる。
それは、休息と祈りを場所であるということ。そして弟子たちに表されているように、人々よりも自分を優先してしまった場所なのである。

このような場所として今日の箇所の「荒れ野」を見てみると、このイエスと弟子たちの対照的な姿が、天使に仕えられることと、野獣と一緒にいる、という二つの対照的な情景に重なって見えてくるのではないか。
餓えて余裕をなくし、周りの人々に配慮することが出来ず、自分のことしか考えられなくなっている、そのような弟子たちの姿は、まさに本能で動く野獣に重なる。ここでの野獣とは、まさに人が陥る罪の象徴として、イエスと一緒にいたのである。
対して、天使という存在は、ここで神とのつながりを表すものとして登場している。神とのつながりにおいて、イエスは荒れ野の中で祈っておられたのである。

イエスがいた「荒れ野」とは、空腹や疲れからくる余裕のなさ──そのような人の罪がすぐそばにあって脅かされるような場所であった。また同時に、天使によって神とのつながりを支えられ、祈りへと導かれる場所でもあったのである。
それこそが、マルコが表現したかった「荒れ野」「人里離れた所」──「エレーモス」であるのだ。そして何よりも、このようなエレーモスへとイエスを送り出したのは、イエスが洗礼を受けられたときに天から下った「霊」、神の霊による導きであった、と聖書は語るのである。

神はなぜ、罪もなければ悔い改めの必要もないイエス・キリストを、荒れ野へと送り出したのか。
それは、この荒れ野という場所が、キリストにとって、これからキリストが神の福音を告げ知らせていく人々の世界、罪の現実そのものを表すものであったからだ。
罪のないイエスが、後にキリストを信じ従っていく人々のために、ヨハネから罪の赦しの洗礼を受けられたように。これから神様の福音を伝え、それに生きる歩みへと踏み出していくために、まずキリストが備えとして向かわされたのは、私たちが生きる日々の現実そのものが表された場所であったのだ。

クリスチャンの現実の日々の中では、神への祈りに導かれ、休息を与えられる時がある。しかし一方で、空腹や疲れ、余裕のなさから、周りのことに気を配ることが出来ずに、自分のことだけで精一杯になってしまうこともあるだろう。
この2つのことは、それぞれ別のところで起きるのではない。私たちが生きて立っているこの場所こそが、そのどちらもが起こる「エレーモス」、荒れ野であり、人里離れた祈りの場所であるのだ。

キリストが人々に伝えようとした福音、神の心とは「人と人とが、御心に適った良い交わりを取り戻してほしい。」というものであった(これまでの顕現節の日課を参照)。そのように神は私たちに対して願い、イエス・キリストを私たちのうちに送り出してくださったのだ。
それは、私たちに対する、神の祈りだった。

神は旧約聖書において繰り返し人々に裏切られ、神様に正しく生きる人など一人もいないことが分かり切っていたはずの世界で、それでも神はあきらめなかった。そのような罪の現実にしか生きれない人間の現実のただなかに、神はその身を置いて、キリストとして私たちのために祈ることから、始めてくださったのだ。

だからこそ私たちも、私たちが生きているこの場所で、いつどこででも、祈らされていく。
私たちが今日ここに生きるとき、そこには様々な時がある。喜ぶとき、支えられるとき、悩んだり苦しんだりするとき。慰められるとき、弟子たちのような罪に陥るとき、自分や誰かのために、私たちは祈らされていく。そのすべてが起こってくる私たちの人生そのものが、キリストが私たちと共に生きてくださる、「エレーモス」であるのだ。

この世の荒れ野に生きる私たちの隣で、キリストは今日も、あなたのために祈っている。