wordpressにはデイリープロンプトというお題が毎日流れてくる。
これを何かに使えないかなあとずっと思っていたんだけど、出来るだけ毎日アウトプットをする習慣づけに使えるんじゃないか、と思って、毎日の日記代わりに書いていこうと思う。
時間は毎回15分程度で書いていきたい。長すぎてもよくないしね。
4月から職場が変わる。牧師という仕事は変わらないけれど、働く場所が教会から学校に変わるのだ。
キリスト教会というところはすっかり高齢化が進んでいて、平均年齢が70代80代、というところも少なくない。少なくともウチの教派はそうで、深刻な問題になっている。
対して、キリスト教主義の学校付牧師──いわゆる「チャプレン」は、主に中高生が相手になる。70代のお年を召した方々にかける言葉と、ティーンズたちにかける言葉はまるで違うだろう。だから、これまで聖書から引き出して語ってきた話というのは、あくまで「成熟した大人」にはピンとくる話かもしれないが、若い10代の子どもたちには響かないだろうという不安がある。
聖書を読んでメッセージを書く、ということはもう数年やってきたけれど、若い子どもたちにとって必要な聖書のメッセージとは何か、ということはほとんど考えてこなかった。なぜなら教会で働いている間は、ほとんど関わることがないからだ。かかわったとしても、幼児クラスの子どもたちが教会学校に来るくらいだった。
だから、今の10代の子どもたちが何を楽しみ、喜び、何に悩み、苦しんでいるのかということを、知ることから始めなければならないだろうな、と思う。それがわからずして、聖書のメッセージはきっと届かない。多分それが、今後半年の間に直面する最大の課題だろう。
一方で、人間何歳になってもうれしい言葉というのもあるのだろうなと思う。その一つは、自分を受け止め、肯定してくれる言葉だ。
聖書には人間関係のもつれがたくさん描写される。というか、そればっかりである。人間の悩みの9割は他者との関係性だと聞いたことがある。それはきっと2000年前から変わらないことだろう。
誰かに自分を受け止めてもらいたい。誰かに肯定してもらいたい。
でも、なかなかそうはいかない。なぜなら一人一人、欠けた部分を持っていると、自分でわかっているからだ。自分のここが嫌いだ、見たくもないという部分があるから、こんな自分なんて受け入れてもらえない(少なくとも自分はこういう人間を受け入れない)という思いに至ることは少なくないのではないか。
しかしイエスは、そのような思いを抱えた人々に一人一人寄り添っていった方だった。それも、上から目線の神としてではなく、ひとりの同じ立場に立った人間としてだ。だから、キリストの問いかけというのは、その人にとって等身大の悩みや苦しみを引き出すものであるし、そこから新しい一歩を踏み出させる力を持っている。
そこには、イエスが神としてその人の状況を見抜くという力も強く働いていたからできたことかもしれないが、その関わり方については学ばされることが大きい。
誠実に、素直に、相手の心を知ろうとすること。上下関係や偏見を取っ払って、一人の人間同士として話を聞いていくこと。おそらくそれだけのことが、この世界ではなかなかうまくいかない。だからイエスがその姿をもって示された関わり方は、愛の教えとなって今もなお伝えられ続けているのかもしれない。
自分も大きな課題を抱えている。でも、そうしたイエス・キリストが教えるその歩み方に倣っていくことで、きっと乗り越えていけるだろうと信じたい。