kyrie.

Christian,Bible,Games,and Diary.

Do It Yourselfに支えられて


“これまで最も意欲的に行った DIY プロジェクトについてお聞かせください。”

DIYって何の略なのかなと改めてちゃんと調べてみたら「Do-It-Yourself」 の略らしい。
本来お店で買えるようなものを自分で作れば大体DIYに相当するとすれば、自分にとって唯一のDIYと言えることは、大学生の頃、パソコンを自作した事ぐらいだ。

昔からお金の使い方があまり上手ではないので、大学時代はお金がなかった。生活するお金はあったのに、貯金をするという頭がなかったのが良くなかった。使い続けていたPCが突如として壊れてしまったのである。
新しいPCをポンと買うお金はないがPCは必要だ。どうすればいいかなと電子機器に詳しい後輩に相談したところ、「自作すればいいじゃないですか」と勧められたのが始まりだった。

当時はまだメーカーのPCがそこそこ高く、同じ値段で自作すれば、よりスペックの高いPCを作れる。同じスペックで組めばもっと安くできる。壊れても壊れたパーツだけ取り替えればいい。なんとエコで財布に優しいのか! と四条通りから電気街に繰り出しては一つずつパーツを買っていって、コツコツと組み立てたのを良く覚えている。

そのPCは結果として10年ほど使い倒すことになったのだが(その時に買った中古のディスプレイは驚くべきことにいまだに現役である)、あの時の経験から学んだことは、「すぐお金で解決せず、とりあえず今あるもの、手が届くものだけで必要を満たしてみよう」ということだ。

同じころ、ギターを買いたいと思った。その時は偶然にもけいおん!のアニメが放映されていたがそれは全くもって関係がない。だいたい小学生のころからバイオリンを習っていたが、実のところ父が弾いていたギターのほうに憧れていたのだ。やっとそれに自分の意志で手が出せるような年齢とタイミングが、運悪くけいおん!のアニメがヒットしたタイミングと重なっただけである。

言い訳はこのくらいでいいだろう。結論から言ってしまうと、そこで買ったレスポール(偶然にもけいおん!の主人公である唯が使っていたカラーである)は、現在では実家に放置され、たまに父がビートルズをかき鳴らすのに使われている。
こんなことになるのなら、帰省するまで欲求を我慢して、実家にしまってあるアコースティックギターを引っ張り出して始めればよかったのだ。そんな反省をしたところでこの自作PCのことを思い起こし、以後は自分を戒めるようにしている。

牧師の身でこんなことを言うのはアレだが、世の中金である。大学生のころに悟った。
通っていた大学は京都御苑の近くにあり、付き合いのある友人は金持ちのおぼっちゃんか貧乏学生かの両極端であった。ぼくはこの間を反復横跳びしながら大学生活を過ごしていた。つまり、貧乏学生から伝授された刺激的な情報や様々なノウハウ(そこにはグレーなものもあった)を、貧乏でなければそんなことを考えもしない金持ちのおぼっちゃんに横流しし、彼の好奇心を満たす対価としてたまにうまい飯をおごってもらうという具合である。
そうやって学んだのは、金があればだいたいのことは解決するということだった。しかしもう一つ知ったのは、金がなくとも情報があればなんとかなることが多い、ということだった。

今もそうだが、知らないと金がかかる。知っている人が知らない人からお金を巻き上げるような経済システムが組みあがっている。あの当時の自作PCもそうだった。PCは組みあがったメーカー製を買うのが普通であり、「これだけのスペックを要求するならこの金額以下はない」というのが常識だった。
自作PCという抜け道を知るまでは。

無知の対価は金である。たとえば最近ではかなり浸透してきたが、MVNO(仮想移動体通信事業者)あたりが顕著だった。
格安スマホとか格安プランと銘打ってエルモだかマルモだか同じような名前で「安い!!!!」を連呼して宣伝しているが、実際にはその半額以下で同じように使える通信回線を提供している会社もやまほどある。
実店舗を持たず、サポートもそこまで充実していないが、その分の知識と自己責任でコストカットができるという抜け道があるのだ。知っておくと節約できることがこの世にはあふれている。逆に言えば、知らない人から金が巻き上げられているということだ。

自分で情報を集め、自分で時間を使い、自分で作り上げていく。そうすることで、他の誰かがしてくれるよりも安く済む。
逆に言えば、自分の代わりに誰かがやってくれているから、私たちは日常使いする便利なものを簡単に手に入れることができているということだ。

多分DIYが私たちに教えてくれる最も重要なことは、わたしたちが一人では生きていけないということかもしれない。
究極的に言えば、すべてのものは自分以外の誰かによるDIYの結果生み出されたものだ。自分の知識では理解できない、自分の技術では創り上げられないものを、誰かが代わりにやってくれている。私たちはそうやって見えないところで支えあっている。

もちろんそこには前述のように利益をむさぼる構造を含んでいるものもあるが、それが自分にとって理解不可能な(あるいは理解をする必要のない)技術であればあるほど、お金を払うにふさわしいものになるだろう。そのありがたさを教えられることが、DIYにおける最も有意義な体験なのだ。

それでは「私たちの命とこの世界をDIYしてくれたのは、いったいどこの誰なのだろうか?」という問いとその答えについては、この記事を読んでいるあなたに投げかけて終わりにしたい。