この問いの前提として、おそらく最低限の衣食住は揃っている上で「自分にはやっぱりこれがないとな」という個々人によって違いの大きい、必要と思われるモノを聞く質問なのだろうと思う。
そうでなければ無人島に持っていくものを聞かれたときみたいに「サバイバルに活用できる本」「大ぶりのナイフ」「鍋」「寝袋」みたいな、そもそも生命活動に必要な品ばかりが並ぶことになってしまう。したがって、現代社会で暮らしていくための「お金」も除外されることだろう。
そのような前提のうえで色々と考えたのだが、最終的には「聖書」と「讃美歌」、そして「ヴィオラ(自分の楽器)」あたりを挙げることにした。
ゲームも大好きなので入れようかと考えたのだが、ハードにしろゲームソフトにしろ、一つに絞れなかったのでやめた。
今のところ永遠にプレイし続けられるゲームを知らない、というゲーム好きを名乗るには残念過ぎる理由も、あるはある。
が、そもそもゲームを一切持っていないのならプレイする気もおきないだろうし、新しいゲームの情報に触れる機会がなければやりたいという気持ちも落ち着いていくことだろう。
「ペン」と「紙」を選んでひたすら何かを書く文筆家のような楽しみを確保することも考えたが、今でさえデイリープロンプトがないと自分から無限に書きたいことが溢れてくるわけではないのでやめた。やはり自分には何か自分以外からの供給元が必要だ。
聖書と讃美歌を選んだのは、その二つがあれば以前にも触れたライフワークがだいたい満たせるからだ。楽器があればなおよい。いつでもどこでも聖書について色々と思索を深められるし、礼拝も出来る。
誰かがそこに一緒に参加することもできるし、一人でもいい。
ただ、これもまた究極的なことを考えてみると、聖書の全文を暗記しているわけではないから候補に挙げただけであって、聖書に収録されている66巻すべてをそらんじることが出来るのなら聖書も必須ではなくなるだろう。
讃美歌も楽譜と歌詞を覚えていれば問題がない。すると楽器だけあればいいという話になるが、別に楽器がなくても人間には自らを楽器にして「歌う」ということもできるので、やはりこれも究極的には必要ないだろう。
このように考えていった結果、究極的には「これがないと暮らしていけない」というものは、最低限の衣食住が確保されているのであれば、本当のところは何もなくてよい、という結論に至ってしまった。
私たちの身の回りにあるほとんどのものは、たしかに私たちの生活を便利にし、今となっては手放せない必要なものばかりかもしれない。
しかし、突き詰めて考えてみるとすべては代替できるものばかりで、究極的には必要なものではないから、それらは「愛すべき浪費」とも呼べるだろう。
だからこそそれらを「本当は必要ではないもの」として見るとき、「だからこそ敢えてこれを選んでこれを必要とする/これに時間を費やしたい」という意識でそれを使うことが出来るのではないだろうか。
そうやって一つ一つを見つめていくことで、有限である私達の人生の時間がより良く用いられることにも繋がるのではないかな、と思う。
「〇〇(何らかの娯楽)は遊びじゃないんだよ」、というネタもあるが、それほどまでに積極性を持ってモノに向き合うという姿勢は、たまには必要なのかもしれない。
wordpressのデイリープロンプトをお題に用いた書き散らしも、ついに一週間を数えることが出来た。
なにか変わったことがあるかと言われるとあまり実感はないが、何となく数千文字の文を書くことへの抵抗感がかなり下がった感じがある。
継続は力なりというか、こうして長い文章を書くことへの抵抗感が下がることは、結果として仕事の原稿に取り掛かる心理的なハードルもかなり下がったように感じるのだ。(役に立ってんじゃん)
今までは、一週間のうちにかける文字数の限界というか、一定文字数以上を書くと、空っぽになった灯油タンクみたいに言葉がめっきり出なくなってしまうことがあった。
これが仕事に悪影響を及ぼすことがままあり、固く絞った雑巾から更に水を絞り出すみたいに無理矢理仕事の原稿を書いたことも以前は何度かあったのだ。
しかし、毎日書く、ということを続けていると、何となくその「文章を書く体力」のようなものがついてきている気がする。
誰のためになるわけではないけれども、こうして楽しく文字に自分の考えを起こす趣味にもならないようなことが、巡り巡って自分の仕事のためにもなっていくというのは、結構嬉しい。
これからも出来る限り続けていきたい。