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神は救いを取引しない


そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

──ヨハネ福音書3章14-21節

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子どものころ、「できるのにやらない」とよく親から叱られていました。
そこで両親が取った方法は、「○○をしたらこれを買ってあげるよ」という「物で釣る作戦」でした。ただ、この方法には一つ誤算がありました。
最初は引き換えに得られるものがたくさんあるので頑張るのですが、「やればもらえる」とわかると、だんだん傲慢になって、報酬を吊り上げたりして、結局もらえるものに対してやる気が出なくないのでやらない、というような状態に逆戻りしてしまったのをおぼろげに覚えています。
つまり、相手と取引をして、その代わりに相手に言うことを聞かせようとする、ということは、しばらくはうまくいくのですが、それをずっと続けるということは難しいということです。

さて、今日の箇所でキリストは、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と、民数記21章に記されている出エジプトの出来事を引き合いに出しています。

神様はモーセというリーダーを立てて、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々を約束の地へと導きだしました。
しかしその道のりは、荒れ野を40年放浪するという厳しい旅でした。
すると、人々は耐え切れなくなって言うわけです。「神よ、なぜ私たちをエジプトから連れ出したんだ?この荒れ野で死なせるためなのか?パンも水もなく、粗末な食物ではもうこれ以上旅をするなんて無理だ!」

実は人々がこのように言うのは初めてのことではありませんでした。
約束の地に至るまで、人々は何度も立ち止まり、神様に不平を言い、そのたびに神様は岩から水を湧き立たせ、天からマナと呼ばれる食べ物を与えてきました。
それでも人々は傲慢にも、これまで神様が助けてこられたことを忘れたかのように、もっともっとと、不平不満を神様にぶつけているのです。
そのような彼らに対して、神様はついに「炎の蛇」を送られました。この蛇によって、多くの死者が出たと聖書は語っています。
しかし人々が罪を犯したことを認めると、同じ炎の蛇を青銅でモーセに造らせ、それを見上げさせることで、神様は人々のいのちを救ったというのです。

私たちはこの物語をどう読むでしょうか。神様はイスラエルの民を助ける存在であるけれども、あまりにも神様に不従順であるなら、炎の蛇をもって懲らしめられ、悔い改めと引き換えに救いを与える、まるで「救いを取引する」神様のように、見えてはこないでしょうか。
実際、キリストが語られた当時において、このモーセの物語はそのように読まれていたのです。
だからこそ律法学者たちやファリサイ派の人々は、神様から救いを手に入れるために、律法を守るということに命を懸けていましたし、その「取引」の条件がはっきりしているからこそ、自分が神様の代わりになって、律法を守れない人を救いに値しない人として、厳しく断罪するということをしてきたのです。

このような取引によって何かを得ようとする関係性が、長く保たれるような、健全な関係性ではないことはわかりきっていたことでした。
しかし、そのような関係性こそが神様の救いを得られる唯一の道なのだとファリサイ派の人々が教えていたのは、きっと彼ら自身にとって都合が良かったからかもしれません。
そして、このような考え方は、イエス・キリストの弟子たちにとっても、同じように浸透していたものであったのです。

四旬節の日課を通して語られてきたのは、キリストが十字架へと向かっていかれる歩みの中で語られた言葉と、そしてそれに対して弟子たちがどのような反応を示していたか、ということでした。
既に以前の日課で聞いてきたように、ペトロはキリストの十字架の道を遮ろうとし、周りの弟子たちも十字架が救いであるとはその時には全く理解が出来ませんでした。
その結果、弟子たちはメシアでありながら十字架へと向かっていかれるイエスを恐れ、何も言葉をかけることができず、ついには沈黙するようになっていったのです。

弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。(マルコ福音書9:32)

このような弟子たちの反応を、当時の「取引の神様」の捉え方から見ると、「イエスの十字架の救いを信じられないのにイエスに従い続けていった弟子たち」が、何を考えていたか見えてきます。
つまり、弟子たちが本当に恐れていたのは、自分たちに救いが与えられなくなることであったのです。自分たちが理解できないような歩みであっても、黙って従っていくことと引き換えにしか、救いは得られない。そういう取引の目で、弟子たちは十字架の道へと進んでいくキリストを見つめていたのです。

だからこそキリストはここで、取引の神様のイメージを生み出したモーセの物語を引き合いに出すことによって、弟子たちのそのような考え方を打ち砕こうとしておられたのです。
信じる者が皆、人の子によって永遠の命という救いを得るために、キリストは十字架へと向かっていかなければならないのだと説明された後、このように続けられるからです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

神様の救いというのは、救いをその報酬にすることで、裁かれる恐れから人々を逃れさせようとし、人々を否が応でも悔い改めさせようとする、そのような取引ではないのだ、とキリストは言われるのです。神様が私たちのために用意してくださっている救いは、私たちが「一人も滅びないように」と願っておられる神様の愛から出ているものなのだ、と説明されたのです。
そのような神様であるからこそ、モーセの物語において最初に人々に遣わされた炎の蛇とは、決して死と裁きをちらつかせ、悔い改めを強制的に迫るものではなかった、という捉え方へとキリストは導こうとしておられるのです。
大事なのは神の罰から逃れようとするのではないのだと。どうにかして救おうとされる神様がおられるということを知ってほしい、そのためにどうにかして悔い改めて、神様のほうを向いてほしいという神様の呼びかけであるのだと。キリストは弟子たちを始めとする当時の人々が持っていた神様の捉え方を、根本からひっくり返そうとしておられたのです。

自分がこれだけのことをしたから、これだけのものが手に入る。こういう取引で物事を捉えるのは、大変わかりやすく、好まれるものです。
しかし、神様の救い、ということに関して言えば、わかりやすいからこそ、私たちの罪が大きく影響を及ぼす部分であるのです。
当時の宗教指導者たちが、神の救いを盾に自らの地位を高く保ち、人々を裁いていたように──救いに取引の考え方を持ち出すとき、それが自分と神様との関係性から離れ、人と人との関係の中で、かえって神様の救いから遠ざけてしまうような考え方に至ってしまう。そのような罪が2000年前から私たちのうちにあることを、キリストはすでに見抜いておられたのです。
だからこそ、歴史のなかで繰り返される私たちの罪を乗り越えるためのみ言葉を、今日、私たちに語ってくださったのです。
神様が私たちに求めておられるのは、ただ神様の御心と愛に目を向けてほしい、それを受け取ってほしいというそれだけであるのだ、と言われるのです。

私は今になって、両親が取引を用いてまで、私に勉強や習い事をさせようとしていたことがわかります。
今だからこそ、どれほど両親が自分を愛するがゆえに、こうなってほしいと願うがゆえに、そうしたのだということが理解できるからです。
そして、取引によって従わせる、ということが長くは続かないことを教えられたこともまた、深い示唆を与えてくれる経験であったなと思い返しています。
だから神様は、モーセの物語においては取引にも見える関わり方をし、キリストにおいてその根本には愛ゆえの呼びかけであったことを明らかにされたのだと思うのです。

神様がなさることのすべてのことの源には愛がある。しかしそれを、私たちが初めから受け取ることは難しいということも、神様はわかってくださっています。
だからこそ、2000年も前から繰り返し繰り返し、み言葉を通して、ユダヤの歴史を通して、そして私たちの日々の歩みの中に起こるすべての出来事を通して、神様は私たちに、ご自分を示そうとしておられるのです。

神様は私たちをどうにかして救おうと、この世のすべての過ちと苦しみから解放して新しい命に生かしてくださろうとしておられます。
私たちの信仰に先んじて向けられている神様の愛とその御心とを、私たちはみ言葉から改めて受け取ってまいりたいと思います。そうすることによって、わたしたちもそれにふさわしい者になろうと悔い改め、御心に適った姿へと押し出されてまいりたいと思います。


「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」