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キリストが死んだのって金曜日なんですか?


“迷信を信じていますか ?”

変な質問だなと思って元のお題(英語)で見てみたら「あなたは迷信深いですか?」ってお題だった。
個人的には「髪を切ると風邪をひく」と長年思っていた。
幼いころは本当に病弱で、1か月に1度熱を出して寝込んでいた。なので2,3か月元気でいると「あれ……いつもならそろそろ体調を崩すタイミングなんだけどな……」と逆に病が恋しくなっていたくらい。

髪を切る時は祖母がほとんど丸刈りみたいな髪型を好んでいたから(髪が目と耳にかかるようになると「鳥の巣」と呼ばれていた)、髪を切る時はせめてもの妥協点として横と後ろを刈り上げるスポーツ刈りにしていた。
急に頭が冷えるのが良くなかったみたいで、数か月にいっぺん、散髪に行くとその後体調を崩す、ということを繰り返していた気がする。
まあ、月1で体調を崩していたのでそれが重なってそういう風に感じていたのかもしれない。
今はそんなことはないので、やっぱり迷信だったんだろうな。

このwordpressのデイリープロンプトは他の人が答えた記事も見れるらしく(ほとんど英語だけど)、読んでみると、英語圏にありがちな「13という数字を不吉に思う」というのが散見された。
調べてみると、こういう理由があるらしい。

最も有名なのは、聖書に関係している説で、イエス・キリストを裏切った弟子であるユダが、最後の晩餐で13番目の席についていたことに由来している、というものである。さらに、キリスト教圏の俗信においてはイエス・キリストが処刑されたのが金曜日であるとされている(聖書にはイエス・キリストの磔刑日の詳しい記載はない)ことから、特に13日の金曜日は不吉な日として、忌み嫌われている。加えて、殺人鬼ジェイソンを主人公とした米国のホラー映画の「13日の金曜日」シリーズが世界的に大ヒットしたことが、こうした風潮に拍車をかけ、日本を含むキリスト教圏以外の国や地域においても、不吉な日であると認識されるようになっている。

出典:「数字の「13」に関わる各種の話題」

聖書では12という数字が「完全数」として見られている(ユダヤのイスラエル入植時の部族数もイエスの弟子の数も12だ)。
しかしもしユダが13番目に最後の晩餐の席に付いたから、というのは、あまりにもひどい言いがかりだろう。弟子は12人しかいないのだから、イエスを含めて13番目に席に付く弟子は誰でもありえたことだろうから。
しかし、キリストが十字架にかけられたのが金曜日、という通説は、今キリスト教会が日曜日に礼拝をしていることと深く結びついた理由がある。

聖書にはキリストが死んだのは金曜日、とはっきりと記されているわけではないが、キリストが十字架上で息を引き取られたのがある日の昼の15時頃、その遺体を引き取って墓に納め、その夕方から「安息日が始まろうとしていた(ルカ23:54)」とあるので、当時のユダヤ教の安息日が土曜日であったことからさかのぼれば、キリストの十字架は金曜日に起こった出来事だ、ということが推察される。
そうして三日目の朝(夕方から数えるので実質2日に満たないくらいだ)、つまり日曜日の朝にキリストが復活したことを墓に行った婦人たちが聞いたことから、キリスト教会の礼拝は日曜日の朝から行われるようになった、と言われている。

キリストの十字架というのは、確かにその当時の残虐でむごたらしい極刑の出来事だった。
人がそこで死んだという事実に、不吉さを感じざるを得ない。
けれども神は、キリストを復活させたことでその死の意味を逆転させ、信じる者には死の先に永遠の命が与えられるという約束をキリストの身をもって示されたと聖書は語るわけだ。
だから、十字架を通して、悲しみと終わりを与えるだけであった死を「永遠のいのちへの始まり」として逆転させたという慰めと救いが示されたことから、むごたらしい磔刑の道具だった十字架が、キリスト教では救いの象徴に逆転して受け取られるようになった。

だから私たちの考えというのも──迷信というのは特に──捉え方の問題によるのかもしれない。
不吉だな、悪いことが起こりやすいな、と結びつける人間の心があり、否定的な出来事に結びつけられたシンボルを、逆転する神様もいる。
そういう神様を信仰することによって、自分を縛り、恐れを引き起こすような迷信から私たちも離れて生活したいものだなと思う。

思えばキリスト教って仏教における「仏滅」みたいな「なにやっても不吉になる日」みたいなの、思い当たらないな。
どう転んでも「これは何かに意味があることなんだ」「神様の計画のうちにあることかもしれん」と前向きにとらえる考え方を勧めているものだし、なにより神様の「すべての人が幸せになってほしい」という考え方が前面にお出しされているので、前向きになりたい人は聖書を学んでみるのはいいかもしれない。