だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。(エゼキエル書16:60)
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旧約聖書に登場するイスラエルの神は、たびたび「裁きの神」と表現されることがあります。
それは、旧約聖書に登場する人々のほとんどが神様の言うことを聞かないために、神様は怒り、その人々を懲らしめる、という裁きを下すということがたびたび起こっていたからです。
あまりにも何度も神様に背くものですから、神様の言うことを聞かなかったことを人々に反省させようとして、イスラエルに他国からの侵略をゆるすことになります。そうしてやっと人々は深く反省し、神様の言葉に耳を傾けることになるのです。
そのような中で、預言者であるエゼキエルは人々が神様に対して行った様々な悪行を思い起こさせています。カシウアああかきか
そして神様は、「お前が行ったように、わたしもお前に対して行う。お前は誓いを軽んじ、契約を破った。」と告げられますが、その一方で「わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。」とも続けるのです。つまり、これまでの悪行をすべて水に流そう、と言ってくださっているのです。
そして改めて結ぶ約束は永遠のものになる、と言われます。ここには大きな転換点があります。
これまでは、人々が約束を破り、神様がそれを叱って、恐怖によって約束を守らせようとしていました。
しかし、「わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。こうして、お前が行ったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる(16:62-63)」と続けて神様が言われるように、「怒られるからやめよう」ではなく、「自分は悪いことをした、と反省することで、自分からもうやめようと心に誓う」という変化です。
神様が望んでおられるのは、私たちが誰かの顔色をうかがって、悪いことをするかしないかを決めるのではありません。
悪いことを繰り返してしまって、そのたびに反省をする人を、何度でも赦される神様がおられる。そのまなざしが向けられているからこそ、私たちはそのたびに、これからは自らを律して正しく生きようとすることができるようになるのだ、と神様は言われるのです。
イエス・キリストの十字架においてもたらされた、神様のゆるしというのは、実は旧約聖書の時代にすでに人々に告げられていたことであったのです。
しかしそれでもイエスが生きた時代の人々は、この神様のゆるしを忘れ去り、再び自分勝手な生き方を選んでいました。
だからこそ、間違った人を懲らしめる「裁き」ではなく、自ら反省へと促すという「裁き」を、イエス・キリストの言葉を通してもう一度、神様は呼び掛けていったのです。
キリストの十字架と復活には、私たちが心に留めるべき神様の永遠の約束が響いているのです。