イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
──ヨハネによる福音書1章47-49節
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マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書は「共観福音書」と呼ばれている。「共」に「観」るという文字通り、この三つの福音書は共通の資料を用いて書かれた福音書だからだ。そのため、同じシーンではその内容が共観福音書同士でかなり似通っている。
しかしヨハネ福音書はやや特殊な独自資料を用いて書かれたもののため、共観福音書には登場しない弟子が登場したり、弟子になっていく順番やいきさつなどが異なってくる。
今日の箇所で登場するナタナエルという名前の弟子は共観福音書には登場しないし、弟子となる経緯も違う。キリストから弟子として選ばれ「従いなさい」と声をかけていくのではなくて、弟子フィリポに「旧約聖書の預言に書かれているメシアに会った」と声をかけられたから、ナタナエルがキリストに出会ったとされている。
なぜそのような書き方をしたのだろうか。
それは、ヨハネ福音書が書かれた時代に理由がある。その時代、キリスト教会にいる人々の中で、イエス・キリスト自身に直接出会ったことのない人々のほうが多かったからだ。
人々のキリストとの出会いは、時代が進むとともに「直接キリスト(神様)に出会って信じる」というものから、「キリストに直接会った人々からの証言を通して自分もキリストに出会い、信じる」というものへと移り変わっていった。
だからこそ、ヨハネ福音書においてイエスの弟子となっていく、という出来事が起こる時、そこではイエスご自身が弟子を見つけていく、というよりも、イエスの話を伝聞で聞くことによって、その人がイエスに出会い、信じていくという形の出会いとして、記されていくのだ。
しかしそこには、一つの不安が付きまとっていたことを、この箇所は仄めかしている。それは、伝聞を重ねるにつれて、「私が信じたのは本当のイエス・キリストであろうか」という不安である。
直接イエスから名指しされて弟子となった者、その直弟子から生のイエスの関わりを証言された者、証言を信じた者からさらに伝聞で信じた者……と時代を経ていくと、情報が伝聞を繰り返していくにつれて、聞いた者がどんどんイエス自身から遠ざかっているような気持ちがぬぐえなくなる不安は、当然起こりうることであった。
それは、イエス・キリストご自身が生きておられた時代から二千年を超えてイエスの言葉を聞く私たちにもかかわる問題である。
二千年も前の人の言葉、書き残された言葉が、時間と場所を超えて私たちに語り掛けられる神の言葉となる、その根拠とはいったいどこにあるのだろうか。
その答えこそ、実はこのナタナエルとイエスとの出会いの物語に表されているのだ。
ナタナエルはフィリポに「メシアに出会った」と言われたとき、半信半疑で言葉を返している。「ナザレから何か良いものが出るだろうか(いや出ない、という反語表現)」と言うナタナエルの言葉は彼の偏見ではなく、旧約聖書にそのように書いてあったからである。
ナザレはガリラヤにある地方の一つであり、イザヤ所では「異邦人のガリラヤ(イザヤ8:23)」と言われていた。異邦人という表現は、神から遠く離れている(あるいは神を知らない)人々を指す言葉だ。それを受けて人々は「ガリラヤから預言者の出ないことがわかる(ヨハネ7:52)」とさえ言っていたのである。
しかし、ナタナエルはイエスと二言三言交わしただけで、この自説をひっくり返し、イエスがキリスト(メシア)であることを認めていく。あまりにも都合の良い展開のように見えるが、この短いやり取りにこそ、イエスが神様でなければありえない、とナタナエルが気付かされたことを示しているのである。
イエスはナタナエルと一切関わりを持つ前に、「まことのイスラエル人だ、この人には偽りがない」と看破する。当然ナタナエルはそれを訝しんでいるが、その理由を「フィリポから話しかけられる前からいちじくの木の下にいるのを見た」とイエスは説明する。
このいちじくの木の下にいる、という表現は、ナタナエルが旧約聖書の律法を学んでいたことを表す言葉である。当時ラビと呼ばれる教師は、大きな木の下で旧約聖書の教えを説くことが一般的であったからだ。
そこでナタナエルは考えたのである。「フィリポに話しかけられる前から」見ていた、とイエスは言ったが、いったいいつからイエスはナタナエルのことを見ていたのか?
そうしてナタナエルは気付かされていったのだ。
イエスは「この人には偽りがない」と言い切ることができるほど、ずっと前から──ナタナエルの全生涯のはじめから、あなたを見ていた、と言われたことに。
自分の過去、自分の本質、自分のすべてが見抜かれている、それができるのはキリストでなければ、神様の許から来られた方以外にはありえない、という結論に、ナタナエルは達していったのである。
誰だって、誰かにうそをついたり、自分の気持ちを偽ったりすることはある。それが一度もない、ということは、よほど意識して生きていないとありえないことだ。
しかし、ナタナエルが旧約聖書の律法に正しく生きようと偽ることを一度もしなかったように、私たちが誰にも知られることなく、ずっと前から大事にしてきたこと、努力してきたことのすべてを、神様だけは必ず見てくださっている。私たちが神様を知らない時から、神様のほうは私たちのすべてを知り尽くし、見守ってくださっているのだ。
ナタナエルの姿は、今日の私たちがどのようにしてキリストに出会い、その信仰を与えられていくのか、ということを示している。
それは、私たちの想像も及ばないはるか昔から、私たちのすべてを見通しておられる、その神様の永遠の確かさを知らされた私たちが、それをただ受け入れることから信仰とは与えられていくものだということを、ナタナエルの物語は教えてくれるのである。
神様の確かさとは、永遠に変わらない確かさである。
私たち一人ひとりのいのちの始まりから終わりまでを見つめ続けておられるという神様の確かさは、私たちと神様との出会い方によって左右されるものではない。
二千年前の書物を通して語られたとしても、キリストを信じる誰かからの話を聞いて知ったとしても、そこで私たちが神様の確かさに出会い、それを信じることに、差異も優劣もないのだ。
だからこそ私たちと救い主イエスとの出会いは、何千年の時を超えてもなお、「今ここで」、「わたしという一人の個人に与えられるもの」として起こってくるものなのだ。
そうして聖書の言葉は、時を超えて響き続ける、今日語られる神様の言葉として、受け取られ続けてきたのである。
神様は、あなたのことをずっと見守ってくれている。これまでも、そしてこれから先も、ずっと。