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人を救いたいと願う気持ちは同じ

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あるお寺の掲示板にこういう言葉が書いてあった。

あけまして
南無阿弥陀仏
「これからだ」

口にしてみたらなんだかすごくリズムがいいなと思う。
何度か口にしてみたら、五七五でまとめられていることに気付いた。
そして、内容もよくよく考えてみると深い。

南無阿弥陀仏という言葉は、仏教の浄土真宗の言葉だ。
「私は阿弥陀という仏さまを尊びます(阿弥陀仏に帰依します)」という意味だそうだ。

この阿弥陀(アミダ)とは、「弥陀(ミダ)」が西洋では長さのメーター、つまり「量る」という意味の言葉で、「阿(ア)」が「~ではない」という否定形を顕す言葉なので、元々は「計り知れない」と言う意味を持つ言葉らしい。
また、中国に伝わる過程で、この阿弥陀の後に続く「光」「いのち(時間・寿命)」という言葉が省略されたという。
だから、南無阿弥陀仏とは、「私は、はかりしれない光といのちの仏さまを尊びます」という意味になる、と浄土真宗 本願寺派のサイトに説明されていた。
つまるところ、この南無阿弥陀仏という一言は、仏教(少なくとも浄土真宗)にとっては、信仰告白に近いものなのかもしれないな、と思う。

…また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
──コリントの信徒への手紙I  12:3b

イエス・キリストという言葉は、イエスが名前、キリストが苗字、という意味ではない。
「イエスはキリスト(救い主)である」という立派な信仰告白であると言われる。
そういう意味で、南無阿弥陀仏と同じように、「文言としては知られているけれど、意外とそこに込められた本当の意味を知らずに口にしている」ものというのは、多いのかもしれない。

イエスはいのちであり、光として来られた、と聖書は語る(ヨハネ福音書1:4)。
そのイエスは、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(マタイ10:39)」とも言う。
それは、わたしたちのいのち、つまりこの世の生涯というものが、自分のためだけに使われることの貧しさを言い当てている。

自分だけのために生きようとする人は、他者のためにその時間を使おうとしない。
しかし誰かの心に寄り添い、誰かのためになることをし、愛を持って誰かのために時間を割こうとするなら、その人は多くの人々の心に生き続けることになる。
その人がこの世の生涯を終えたとしても、そのあとも多くの人々を導く光として生き続けることになる。

そのように誰かのために生き、誰かのために死ぬことを、自分一人の力だけで成し遂げる人はなかなかいない。
それほど私たちが生まれながらに自分勝手な存在であること──聖書が言う罪を抱える生き物であることを、イエスはきっと見抜いていたのだろう。
だからイエスは、2000年もの時を超えて、今も聖書を通して私たちにこの大事な人生の指針を教え続けようとしているのだろう。
それはかつて、親鸞が「南無阿弥陀仏」という信仰告白、祈りを人々に教え、今なおそれが祈られ続けているように。

親鸞はこの南無阿弥陀仏のうちの「ナム」、つまり「私は~尊びます」という言葉さえも、仏に帰したと言われる。仏に向けられる信仰さえ、仏の働きによって起こる、と教えたのだ。
これはキリスト教で宗教改革を起こしたマルティン・ルターと響きあうものがある。
というのも、ルターが宗教改革を起こすきっかけとなったのは、当時のカトリック教会があまりにも「行為義認」──自分の力で神の救いを勝ち取る、という考え方を推進していたからだった。
ルターは「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ(によって私たちは救われる)」と言う。私たちが信じる事さえ、神の恵みによって、神から与えられるものだ、とルターは言ったのだ。
このことなどから、親鸞とルターの神学的な共通点を取り上げる神学書も出版されたこともある。

宗教と言うのは、真理とは何かということを突き詰めていけば、たとえ違う宗教であったとしても、似通ってくるものが見出されてくる。だからこそそれは紛れもない「真理」と呼ばれていくのだろう。
イエスや親鸞や多くの偉大な宗教家たちが語ったことを通して、きっと私たちもその真理の一端に触れることができるのだ。
きっと、全てのまっとうな宗教は「この世に生きる私たちをどうにかして救いたい」という思いを持っている。
その道筋はそれぞれに違えど、きっとそこには認め合える部分もたくさんあるのかもしれない。

それぞれに信仰の言葉を支えにしながら、いつでも「これからだ」と新しいスタートを切っていくような、そういう一年にしたいものだ。