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祈りの原点


イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

──マルコ福音書2章15-19節

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今日の福音書の日課に選ばれているのは、いわゆるキリストの「宮清め」と呼ばれてきた箇所であります。
キリストはエルサレム神殿に入られると、境内で捧げものの動物を売っている商人たちや、両替をしている人々を神殿から追い出し始めたのです。
ただ追い出すだけではなく、「両替人の金をまき散らし、その台を倒」されたという描写から、ただ事ではないキリストの怒りが伝わってきます。
なぜキリストはこれほどまでに激怒されたのでしょうか。
それはキリストが彼らに言った言葉から察することができます。
「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

エルサレム神殿で羊などの動物を売っていた人々や両替人たちは、何か違法なことをしていたわけではありません。
イエスが神殿に来られたのは、ユダヤ人の過越祭が近づいた時期であったと語られています。
過越祭というのはユダヤでは一番盛大に行われるお祭りで、出エジプト記に記されているように、神様がエジプトからイスラエルの人々を連れ出し、イスラエルの地を約束の地として与えてくださったことをお祝いするお祭りでした。
しかし、イエスの時代には、度重なる他国からの侵略によって、ユダヤ人たちはイスラエルの地から散り散りにされてしまっていました。
ですから、過越祭はそのような外国に住んでいるユダヤ人たちが年に一度、イスラエルに帰ってくるお祝いの日でもあったのです。

また、神殿で祈るときには、旧約聖書の律法に従って、何らかの捧げものが必要でした。
外国に住むユダヤ人たちは旅行者ですから、捧げものの羊や牛、鳩などは用意できません。
そのような必要に応えるために、商売をする人たちは神殿の境内にいたのです。
旅行者が礼拝をするために捧げものを売り、また外国の通貨をイスラエルで流通する通貨に両替する場所も、彼らの礼拝に必要だからこそ、設置されていたものであったのです。
それを、イエスはまとめて追い出していきました。いったいイエスは何を伝えようとして、このような騒動を起こしたのでしょうか。

今年度に主として読んでいるマルコ福音書にもこの宮清めの箇所が記されていますが、そこでイエスはイザヤ書の言葉を引用しながら、このように呼びかけています。
「こう書いてある。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』(マルコ11:17/イザヤ56:7)」
キリストはエルサレム神殿を「神様のおられるところ」であると同時に、「祈る場所」であると見ていました。
けれども人々はその神殿を「商売の家」にしてしまった、とキリストは語ります。
実はこの「商売」という言葉を原典のギリシャ語にさかのぼってみると、そこには「利益をむさぼる」という意味が含まれた取引のことを指す言葉であるのだそうです。

このことから、神殿で商売をしていた人々というのは、旅行者であるユダヤ人たちの礼拝のために必要なものを提供していたというだけでなく、その商売を通して自ら利益をむさぼっていた、ということがイエスの言葉から伺えます。
また、両替人たちも追い出したということは、おそらくこちらも両替の手数料をむさぼっていたのでしょう。
神に祈るために捧げものをする、という行為そのものが、本来は神様への感謝を表す祈りでした。
しかし、その行為に便乗して、私腹を肥やすということに、キリストは我慢がならなかったのです。それはもはや祈りを助ける働きではなく、むしろ祈りを妨げるものになっていたからです。
このように呼びかけられることによって、キリストは人々に悔い改めを迫り、「祈りとは何か」という原点に立ち返らせようとしたのです。

しかし、キリストのこのような呼びかけが効果があったかと思うと、ほとんどそこにいた人々には響かなかったのではないかと思います。
何故ならそこにいたユダヤ人たちはキリストがやったことに憤慨し、イエスはそれをするに値する人物なのかどうかと迫っているからです。
彼らはイエスが問いかけた祈りの原点への悔い改めにはまったく思い至っていないことがわかります。
ですからきっと、神殿にいた商売人たちや両替人たちは、次の日には元通りになっていたことでしょう。

これまでキリストは、様々な奇跡や悪霊を追い出す力によって、人々を癒し、救ってきました。
それは、人と人とが、そして神と人とが本来の交わりを回復されるという救いが成し遂げられるためでした。
そして今日の箇所でキリストが願われたのは、祈りという神と人との関わりがその原点に立ち返り、是正されるということであったはずです。
しかしここでキリストがされたことは、次の日には元通りになってしまうような、奇跡でも何でもない行為と呼びかけに留まっています。
キリストはなぜ、人々が有無を言わさず悔い改めるような神様からゆだねられた奇跡や大きな力を用いなかったのでしょうか。

それは、キリストの「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」という言葉に、その理由が示されているのです。
キリストはここで、神殿を三日で建て直すと宣言されました。
ここで建て直すと言われた神殿とは、キリストご自身の体のことであった、とヨハネ福音書は説明しています。
つまり、ここでキリストが言わんとしているのは、復活のキリストが来られるとき、復活のキリストご自身が神殿の働きをするようになる、ということを言っておられたのです。

ですから、キリストがユダヤ人たちに、また弟子たちに示そうとしておられたことは「今の神殿は神様の御心に適っていない、人々が利益をむさぼる場所になり果てている」という注意喚起だけではなかったのです。
人々が祈りの原点に立ち返るために、神殿でしか祭儀が行えないこと──つまり神殿という場所でしか人々が神様との関わりを持つことが出来ないという当時のユダヤの構造自体を、作り変えることで、人々の祈りを本来の形に戻そうとされていたのです。

私たちが神様に祈る時、どのように祈るでしょうか。
最初は神様への呼びかけから始まります。その次に、祈る内容がそこに続いていくことになります。
そして、最後にどのような言葉で祈りを締めくくるでしょうか。「この祈りを、主イエス・キリストのみ名によってお捧げいたします」と唱えると思います。
これが、キリストが教えられた、キリスト教の祈りの基本です。この言葉に、キリストが人々に願っておられた祈りの原点が示されているのです。つまり、復活のキリストご自身が、神様と私たちを繋ぐ祈りの神殿となってくださった、ということです。
キリストがイエスという人間としてこの世にやってこられたのは、まさに神様と人との仲立ちをし、その関わりを回復するためであった、ということが、この「宮清め」の出来事においても、貫かれているのです。

イエス・キリストは、私たちのために、十字架にかかってくださいました。
それは、当時のユダヤ人が神殿で祈る時には捧げものをしていたように、これからは私たちが神様への祈りをささげる際の、捧げものの子羊になってくださった、という意味で捉えられてきました。
そして、キリストは復活によって神殿の代わりになることで、私たちが祈りを通して神様と関わりあう場所を備えてくださったのです。
こうして私たちは、いつどこででも、神様に祈りをささげることが出来るようにと、整えられているのです。

今日の箇所の商人たちのように、彼らだって最初は神様のために、まったくの善意と熱意をもって、同胞であるユダヤ人たちの祈りを純粋に助けようとしていたはずでした。
しかし、いつしか自分の利益をむさぼるようになってしまった姿には、私たちにも重なる部分があると思います。
聖書の言葉を聞き、キリストが教えるとおりに誰かに愛をもって接し続けようとしても、なかなかそうできない時だってあります。祈りをささげようとしても、いつのまにか神様に向けて祈る言葉が、自分勝手なお願いばっかりになっていることもあります。
しかし、そのような私たちのために、キリストは私たちと神様との間に立ってくださり、私たちの代わりにそのみ名を通して、神様に祈りを届けてくださるのです。

「キリストのみ名によって、この祈りをお捧げいたします」。この言葉を祈りの最後に唱えるとき、私たちもまた、今祈ったことが、自分勝手の祈りになっていないだろうかと、もう一度振り返りたいと思うのです。
このような祈りの原点へといつも立ち戻らせてくださるキリストが、私たちをたえざる悔い改めの祈りへと導いてくださっています。
そのことをおぼえながら、この四旬節の時を祈りと共に過ごしてまいりたいと思います。