【黙想】『キリストにならう』 第1巻第2章4


非常に奥深く有益な知識とは、自分をまことに知り、それを軽んじることにほかならない。自分を見下し、他人を尊重することは、大きな知恵であり、完徳である。もし他人が公然の罪あるいは重大な過ちを犯しているのを見ても、あなたは自分がその人よりも善良だと思ってはならない。なぜならあなたがいつまで善にとどまれるかはわからないからである。私たちは皆もろい。しかしあなたよりももろい人間はいないと思いなさい。

──『キリストにならう』 第1巻第2章4

+黙想+

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)」とイエスは言われた。
神とはどのようなお方なのか。その義、正しさとはどのようなものか。それは聖書とイエスに表されている。
この世の論理では理解し難い、ともすればまったく逆であろうと思われる十字架でさえ、それを信じさせられた者にとっては絶望ではなく福音である。

他の新興宗教がイエスの十字架を悪し様に書き連ね、「神が死んだことをありがたがる奇特な教え」と糾弾してきたことがある。
しかしパウロもこのように言っている。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です(1コリ1:18)」。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピ2:6-9)」

すべてのことを実現させることができるお方である全能の神が、自ら私たちと同じ弱々しい人間となり、その死を分かち合うことを選んでくださった。
それは神の論理である。
果てしなき愛の論理である。
このような義しさを持つ神であるからこそ、私たちは神がそれほどの犠牲を払わねばならなかった私たち自身の罪を明らかにされる。

どれほど私たちは罪深く、汚れに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯していることだろうか。
どうしてあなたの隣人より自分が正しいと言い張ることができるだろう。
神のみが正しいことを本当に受け止める時、私たちは信仰によってその神の愛に立とうとする不断の努力なしには、この世で生きていくことさえ自らに許すことなどできはしない。

しかし神は、そのようなあなたをそれでも愛された。
あなたのために、神は十字架にかかって死の痛みを受け入れ、あなたの罪をすべて赦し、神とともに生きようとするあなたを喜んで支えようとしておられる。
全ての御言葉をもって、共にあって励まし、癒やし、導こうとされているのだ。

「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。(イザヤ41:10)」

+後書き+

毎週黙想文を書いてきました。ここまでお読みいただきありがとうございます。
『キリストにならう』は当時の修道士の立場とカトリック的な神学に基づいていることを考慮しても、キリスト教のすべての信仰者にとって、信仰的な気づきを与え、悔い改めを引き起こさせ、また再びキリストへと結びつけるための一助となる名著であるように思います。

この本に出会えてよかった、と私は思いますし、もしこれを読んでおられる方がまだ『キリストにならう』を持っておられないとしたら、是非お手元に置いていただくのがよいかと思います
第3版の帯には「第二の福音書」と評されている通り、聖書と共に読んでいただくと、より一層イエスが間近に感じられることだろうと思うのです。

残念ながらこうして黙想文を書き続けていくと全文を引用することにもなりかねないので第2章(今回)までで一区切りにしようと思います。

この記事を読んでおられるあなたにも、神様の祝福と導きがありますように祈っています。