イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
──ルカによる福音書24:50-53
+++
新約聖書の通読をしている。
読んでいるのはカトリック教会による「原文校訂による口語訳」だ。
こちらのほうが原文の意味に近い形で訳してくれているし、注釈も豊富などで色々と発見が多い。
マタイ、マルコときてルカ福音書を読み終えたところだが、こうして通しで読んでみると、いかにルカ福音書が異邦人──旧約聖書の文脈を知らない/読んだことがない人に向けて書かれているかがわかる。
たとえばイエスがいわれもしない罪に問われて最高法院での裁判を受ける際、マタイ福音書では「生ける神に誓ってわれわれに言え、お前は神の子、メシアなのか」と問われると「あなたの言うとおりである。今から後…(旧約聖書の預言書の言葉の引用が続く)」と返している。
一方でルカ福音書では「では、お前は神の子か」と尋ねられ「わたしがそうだと言うのは、あなた方である」と答えるだけになっている。
これは、マタイ福音書では旧約聖書において神を自称した場合の罪が定められている(レビ記24:16の「主の名を冒涜する者は必ず死に処せられる」がこれにあたると解釈される)ので、「メシアか」と問われて「そうだ」と言った時点でアウトになる、という流れだ。
しかしルカ福音書では「わたしがそうだと言うのは…」とはっきりしないイエスの答えに対して律法学者たちが「これ以上何の証言が必要だろうか」と無理やりに有罪判決をしているような言葉が続けられていることから、いかに不当な裁判であったかということがうかがい知れる。
加えて、ルカでは総督ピラトも三度、イエス・キリストの無罪を主張をするというシーンもある。
そういう意味で、初めて聖書を開き、イエス・キリストの生涯に触れるというなら、ルカ福音書がおススメされる理由がわかった気がする。
以前はルカは文量が多い点がネックだと思い、マルコ福音書を最初に読むのが最適、と思っていたが、文量の少ないマルコ福音書はむしろ「イエスとは何者かを繰り返し問い、繰り返し読む」ことをメインとしている福音書のため、初めに読むには疑問が浮かびすぎてしまうのかもしれない。
しかしルカ福音書では、旧約聖書の神学や律法学者たちの立場をあまり知らずとも、人と人との関係性において救われること、あるいは普遍的に理不尽とされること――フラットな視点からイエスの生涯と福音を受け取ることができるように書かれているのだ。
さて、ルカ福音書はイエスの復活と昇天によって筆を置く。冒頭に引用した箇所が最後のシーンである。
この箇所に「原文校訂による口語訳」ではこのような注釈が付いている。
ルカの第一場面は神殿であったが(1:5以下参照)、最終場面も神殿である。その神殿において、新しい精神に満ちた使徒たちは、神を賛美するのである。なお、ラテン語のウルガタ訳は「アーメン」をもって第3福音書を終えている。
ウルガタ訳聖書の「アーメン」という付記は、後代による解釈ではあるのだが、とても心に残る解釈だなと思う。
福音書とはイエスの生涯を記した物語であるが、同時にイエスという人格的な存在に読者であるわたしたちが「出会う」書でもある。
なぜなら「言は神であった(ヨハネ1:1)」と聖書は語るからであり、聖書の言葉を通して私たちは神に出会うからだ。逆に言えば、聖書の言葉なしには神様には出会うことはできない。
キリスト教の祈りとは、単なる願いではなく「神との対話である」と言われる。
それは、神様とのコミュニケーションの一つが、祈るという行為を通して行われるということを言い表している。
そしてルカ福音書はまさに「アーメン」と閉じられるべき物語、福音書という一つの書そのものが「祈り」とされている──物語の最初と最後を、神殿と言う祈りの場を場面とすることで、そのようなテーマで包み込んでいるのではないか。
ルカ福音書を読むということ、それはイエスの生涯を通して、神様ご自身による私たちへの祈りを聞き取っていくという体験でもあるのかもしれない。