イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
──ヨハネによる福音書 8:31-32
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八木重吉というクリスチャンの詩人がいます。
今日は彼の詩から一つ、魚という詩をご紹介したいと思います。
水の底に影をおとして
ちいさな魚がおよいでゐる
およいだり浮かんだりしてゐる
自分のきもちを無理にとほそうとせず
それでいながら
ものに妨げられぬ姿でおよいでゐる
この詩を読むとき、「自由」というものをよく言い表しているなと思います。
水の中を泳ぐ小さな魚は、ただ、水の中をのびのびと、自分らしく泳いでいる。
もっと速く泳ぐために水を無理に押しのけようとはしません。しかし妨げられることもなく泳いでいます。
それはつまり、魚の周りにある水と、魚自身とが、調和して、配慮しあい、主従関係ではなく、自然な関わりの中に、自分を無理に主張せずに生きているということです。
このような自由は、まさに今日の聖書の言葉の中でイエスが語っている「自由」と同じものであると言えるでしょう。
イエスは言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
この、「わたしの言葉にとどまる」とは、聖書において勧められていることをただ守る、ということではありません。イエスが人をどのように見ていたかを知り、その目で私たちも物事を見ようとすることです。
そのとき、私たちは「真理を知る」とイエスは言います。
その真理とは、神様が私たちをどのように見ておられるかということです。
あなたが秀でたなにかを、周りの人に自慢できるようなものを何一つ持っていなかったとしても、神様はあなたを、分け隔てなく他の人々と同じように尊び、かけがえのない大事な存在として思ってくれている、ということです。
その視点をもって私たちも周りの人々を見ていく時、私たちは本当に「自由」な関係性へと踏み出すことができるのです。
イエスが語る「自由」とは、自分で何でも思い通りにできることではありませんし、好き勝手に生きることでもありません。
私たちが知らず知らずのうちに縛られているものからの自由なのです。
私たちは周りから生き方を強制されるというだけでなく、自分で自分を縛ってしまうことがある。
「自分はこうでなければ認められない」という焦りを抱えたり、他人の目を気にするあまりに、本当の自分を隠してキャラクターを作ってしまうことがあります。
逆に、周りのことに気を配ることができず、自分さえよければいいという生き方をすることもあるでしょう。
そのような生き方は、私たちを自ら縛ってしまったり、あるいは周りから縛られるかのように感じることを引き起こしていくのです。
だから八木重吉は、私たちを「小さな魚」にたとえ、「自分のきもちを無理にとほそうとせず」と詠ったのだと思います。
イエス・キリストというお方は、神様でありながら、決して人々をその権威や権力によってひれ伏させることはありませんでした。むしろ、社会の中で一番弱い立場に置かれている人々のところへと、自ら降りて行かれました。
そして、あなたのことが大事なんだよ、尊い価値があるんだよと伝えに来てくださったのです。
私たちがそのような神様の愛を受け入れ、自分を縛る様々な鎖から自由になるとき、私たちは初めて周りの人の「その人らしさ」を認めることができるようになります。
自分を無理に押し通さなくてよくなるからこそ、相手の言葉に耳を傾けることができるようになるのです。
だからこそ私たちもまた、そうやって自信を失い、自分で自分を縛っている人々に対して、「あなたはかけがえのない存在なんだよ」と伝えていくことができるようになるのです。
そのようにして私たちみんながイエスの言われる「自由」のなかに妨げられずに生きていくことを、神様はいつもわたしたちに願っておられるのです。