一日一章・マタイ福音書解説(第12章)


マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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マタイ福音書12章

◆安息日に麦の穂を摘む
12:1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
12:2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
12:3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
12:5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
12:6 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主なのである。」
◆手の萎えた人をいやす
12:9 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。
12:10 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
12:11 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。
12:12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
12:13 そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
12:14 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
◆神が選んだ僕
12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、
12:16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
12:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
◆ベルゼブル論争
12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
12:24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
12:25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
12:26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
12:29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
◆木とその実
12:33 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
12:34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
12:35 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
12:36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。
12:37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
◆人々はしるしを欲しがる
12:38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
12:42 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
◆汚れた霊が戻って来る
12:43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
◆イエスの母、兄弟
12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」


ちょこっと解説

この章では再びファリサイ派の人々とイエスとの対立が深まっています。
しかしここでイエスは以前も引用した言葉「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(ホセア6・6)」を再度持ち出しています。
これはこの箇所が論破に最適な万能聖句であったからではありません。
この箇所が語られている文脈には、当時のイスラエル王国の人々が行なっていた形だけの儀式(いけにえ)、形だけの悔い改めを戒める箇所であるからです。
イエスはこの箇所が教える「神が求める憐れみ」の実践として、手の萎えた人を安息日に癒されます。
当時の律法では「安息日には仕事をしてはならない」と定められていましたから、医者が患者を治すことも仕事として解釈され、禁じられていました。
それにも関わらずイエスが手の萎えた人を癒されました。
それは律法を文字通りに形式的に守るよりも、目の前に助けを求めている人がいれば助ける、というシンプルな憐れみの行為こそが、律法の本質──神様が人々に求められた愛と憐れみにかなった生き方であるとイエスは実践し、説明されたのです。

それを教えられてなお、ファリサイ派の人々はイエスに反発し、「どのようにイエスを殺すか」を相談し始めます。
このような姿にこそ、皮肉にも彼らが神様の心に反していることを自ら表明してしまっていることが表されているのです。

また、ファリサイ派の人々はイエスの奇跡を「悪霊の頭ベルゼブルの力」によるものだという、荒唐無稽な言いがかりをつけます。
それに対してイエスは当然の論理で反論します(25-26節)。
注目すべきはイエスが「人が犯す…冒涜はどんなものでも赦される(31節)」と言っていることです。
当時としてはかなり斬新な律法解釈であったと言えます。なぜなら冒涜とは弁解の余地なく死罪に値する罪だと考えられていたからです。
だからこそイエスも最終的には冒涜の罪に問われて十字架へと追いやられていくことになりました(マタイ26・65)。

しかしイエスは、人が持つ罪がいかに深く、自分ではコントロールできないものであるかを神様がわかっておられる、ということを伝えようとしています。それは旧約聖書が繰り返し描き出してきたことでもあります。
だからこそイエスは自身が的外れな非難にさらされても全て赦す、と言われます。
これはイエス・キリストが後に十字架において示される全人類への赦しに通ずる言葉でもあるのです。
そして、後に続く「しるし」についての問答では、初め神様に逆らった預言者ヨナが三日三晩魚の腹に閉じ込められて生と死のはざまにいたように、イエスも復活まで三日を要することが、のちの「しるし」として与えられるのだという予告をするのです(40節)。

一方で、神様が唯一赦されないものとして「”霊”に対する冒涜/聖霊に逆らうこと(31-32節)」とイエスは言われます。この霊とは簡単に言えば「神様の働き」を指し、それに対して逆らったり否定をすること――「後の世(終末)」が来る時までに悔い改めないならば、赦されないと言われます。
これは、決して神様からの脅しではありません。
ファリサイ派の人々のように自分の正しさを信じるあまりに頑なになり、本来神様が願っておられる人間関係を自ら遠ざけてしまう人を、神様は救うことができないよ、ということです。

ニネベの人々(41節)のように悔い改め、南の国の女王のように異邦人であっても神の知恵(ここではイエスの言葉)を求める者に、神様はどれほどの赦しと救いの恵みを用意しておられるのかをイエスは伝えようとしています。
それゆえ、これはファリサイ派の人々の頑なさに対する厳しい忠告であり、イエスを殺そうと画策する彼らを代表とした、聖書を読む全ての人々に対しての悔い改めへの招きであるのです。

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