主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
──詩編 139:1
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数年前「何者」というタイトルの映画がありました。
何者かになりたい就職活動中の人々が主人公で、一人一人の良いところだけでなく、悪いところも次々と明らかにされていき、それに向き合ってそれぞれに新しい一歩を踏み出していく、という「自分探求」の映画であったように記憶しています。
私たちの誰もが「何者になりたいのか」そして「わたしはどのような人間なのか」ということを考える機会があることでしょう。
しかし考えてみると、私たちは自分のことを一言で言い表すことができるでしょうか。
もしかしたら外では明るく振舞っているけれども、家では疲れ切って気持ちが沈んでいる人もいるかもしれません。
プライベート、インターネット上でそれぞれ全く違う人間のように振舞ってしまう、それをやめられない人だっているかもしれません。
だからこそ、いったいどれが本当の自分、本心なのだろうかと悩む時期が、きっと誰しもあるはずです。
もちろん関わる人や今いる場所によって、私たちが自分というキャラクターを使い分けることはよくあることです。
それでも「本当の自分はどのような人間なのか」を見極めていなければ、八方美人で主体性のない人間になってしまうのです。
第二次世界大戦中に、ナチスに第二次世界大戦中、ナチスに抵抗して処刑されたルーテル教会の牧師に、ディートリヒ・ボンヘッファーと言う人がいます。
この人も周りから見られている自分と、内心のギャップに悩まされていた人であったと言われています。
周囲からは「勇敢で泰然自若としている」と見られていた彼は、内面では「震え、悩み、死を恐れていた」と書き残しているからです。
しかし彼はある時、そのギャップを克服しました。獄中から友人にあてた手紙の中にある、「私はだれか」という詩にそれが表されています。
「私はだれか。孤独な問いが私をあざける。
私がだれであろうとも、神よ、あなたは私をご存じです。
私はあなたのものです。」
ボンヘッファーは、「私は誰か」という問いかけに、「神様が私を知り尽くしてくださっている」ということに心の平安を見出した人であったということです。
それは、神様だけが、私たちの中にある相反する心を、人間性を、全て知り、受け止めてくださっているということなのです。
私たちは本当の自分を探すとき、「これは本当の自分ではない」と、一つずつ自分を消していくことによって、最後に残ったものを自分にしようとしてはいないでしょうか。
神様が私たちを見つめてくださっているように「これも自分の一つの姿なのだ」と数ある自分を一つ一つ受け入れることができた時、私たちはきっと、そこに浮かび上がる本当の自分の姿を見つけることができるようになるはずです。
なぜなら神様は、「わたしを究め わたしを知っておられる」お方であると、今日の詩編の祈りを通してダビデも語っているからです。
そしてダビデはこの詩編139編の最後に、再び繰り返して祈っています。
「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」
私たちが私たち自身を知ろうとする時、それを神様に尋ねる事が最も賢い道であると、ダビデは知っていました。
そして神様が私たちの人生の全てを見通しておられるからこそ、ダビデは「試されること」「悩むこと」「迷うこと」さえ神様に望んでいったのです。
私たちは、どんな人間なのでしょうか。
きっとその答えは、順風満帆で挫折のない人生からは生まれてきません。
人生の中に与えられる悩み、迷い、考え、乗り越える、たくさんの試練の中にこそ、見出されていくことだと思います。
あなたが何者であるのか、そう問われることを恐れないでください。きっとその答えを、神様は必ず教えてくださるはずです。