祈りの力


見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

──ヨハネの黙示録 3:20

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牧師になるための学校に通っていた時、同級生たちと仲違いをしたことがありました。
牧師を志す人というのはそう多くいませんから、同じ学年に数人という貴重な同期の友人たちなのですが、些細なすれ違いからお互いに意固地になってしまったのです。
そういう問題が起きた時、キリスト教カウンセリングの授業を担当している先生と面談をする機会がありました。
その先生に仲違いの経緯をお話しする中で、「このことについてお祈りはしましたか?」と尋ねられたのです。

もちろん祈ってはいました。
私は「はい、相手が悔い改めて謝ってくれるようにと祈りました」と答えました。
すると、その先生は今日の聖句を聖書から引いてお話をしてくださいました。

「『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』
…この聖句の通りに、私たちが心のドアを自分で開けなければ、神様でさえ入ってくることはできないのです。人間の心はとてもかたくななものです。自分を変えることができるのは、自分だけです。相手を変えようとしてはいけません。
…ところで、今あなたが神様にしているお祈りは、自分を変えず、相手を変えようとするお祈りでしたね。相手だけでなく、自分が悔い改めるためのお祈りもできていますか?」

そう言われて、ハッとさせられました。
お互いに意固地になるだけではなく、いつの間にか自分のことを正当化して、相手だけが悪いかのように考えてしまっている自分に気付かされました。
自分にも悪い点があったことをもう一度振り返り、自分の方から謝りに行くことにしたのです。
こうして同級生たちと仲直りをすることができた、ということがありました。

「7つの習慣」を提唱しているスティーブン・コビー博士も、「変化は自分の中からしか生まれない」というインサイドアウトの考え方をまず初めに教えています。
私たちは問題が起きた時、私たちの周りにその原因を見つけがちです。
「誰々がもっとこうしてくれればよかった」「あの時あれがあったならこうはならなかった」と、他人や物に責任を問うことで、自分の責任逃れをしようとすることが多いものなのです。
聖書の一番最初の物語、天地創造の物語の中で人間が最初に神様に対して犯した罪も、責任転嫁という罪であったように(創3:11-13)、全ての人間が陥る罪が、ここにあるのです。
だからこそ、自分が変わらず、周りを自分の都合の良いように変えようとするのではなく、まず自分から変わっていくことが、全てを動かす起点になるのです。

私たちが神様に祈るという行為は、自分自身を振り返らせる力を持っています。
私たちが祈ることによって出てくる言葉は、今自分がどのようなことを考え、どのような状況にあるかを客観的に見つめる手段にもなるのです。
意固地になっていないか。自分を正当化し、周りを変えようとしていないか。不満や求めがあるときには特に、私たちのほうが責任転嫁の罪に陥っているかもしれないと、意識を変えてみましょう。
神様は私たちの祈りをすべて受け止めてくださっています。
もし、祈りが聞かれていないように思う時、それは「祈りを通して、私たちが自分自身を振り返る機会を神様が与えてくださろうとしている時なのだ」と受け止めてみてください。

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