マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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自分のペースでお読みいただければ幸いです。
マタイ福音書7章
◆人を裁くな
7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
◆求めなさい
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
◆狭い門
7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
◆実によって木を知る
7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
◆あなたたちのことは知らない
7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
◆家と土台
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。
7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
ちょこっと解説
山上の説教の締めくくりの7章では、当時の人々が持っていた旧約聖書の律法に基づく凝り固まった「義しさ」が逆に人々の間で罪を引き起こしていることを、具体的な例を出しながら教え、神様が求める元の形に戻そうとしていきます。
5章に響きあうように、律法に文字通り正しいかどうかという一見分かりやすい基準を用いて、自らを神のようにし、隣人の罪を糾弾するということが横行していたのでしょう。それは決して律法学者だけではなかったはずです。
日本の外国人に対する寛容さが突然否定と排除に移り変わるそのラインは、「日本の文化とルールを守っている限り」という条件にあるように思います。
日本で守られてきた暗黙のルールに従うなら誰であれ受け入れ、少しでもそれを乱すなら排除する。それは、日本人自体が規律正しく生きているのではなく、相互監視の「恥の文化」が根強いからでしょう。
多くの人々が「正しい」とすることが正しさを持ち、それにそぐわない者は「恥」とされる──その正しさは確固たることに根付いているのではなく、あくまで移り変わる「雰囲気」のような相互監視のもとにあるように思います。
その「雰囲気」によって、そこから外れた者を排除し叩きのめすことを「正しい」こととしてしまう、その有り様は、イエスが当時の裁きあう人々の間に見ていたものに近いかもしれません。
だからこそイエスはそのような相互監視と裁きあいから人々を解放し、正しさと裁きと再び神様に帰そうとされるのです。
私たちに悔い改めを求め(1節~5節)、神様が私たちのために最も必要な「良いもの」を与えてくださることをおぼえながら、私たちを隣人のもとへと、裁くためではなく良いものを与える者として遣わそうとされます(7節~12節)。
そして、その善なる行いは形だけの物であってはならないということを忠告した上で、神様はその目に見えない心の内まですべてお見通しであることを忠告するのです(13節~23節)。
それはまさに、この山上の説教の始まりに「幸いである」と語り始められている言葉に響きあいます。
私たちは神様によってどのようなときにも「幸い」とされているのであるからです。
だからこそ隣人から与えられる承認や賞賛を求めて目に見える行為に励むのではなく、幸いな者とされている満足のもとで、その信仰と謙虚さに裏打ちされた関わりをもって「良い実」を──洗礼者ヨハネが語った「悔い改めにふさわしい実(マタイ3:8)」を実らせていくようにと勧めているのです。