一日一章・マタイ福音書解説(第11章)


マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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マタイ福音書11章

11:1 イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。
◆洗礼者ヨハネとイエス
11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
11:7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
11:8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
11:13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。
11:14 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
11:15 耳のある者は聞きなさい。
11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
◆悔い改めない町を叱る
11:20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
11:22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
11:23 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
11:24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
◆わたしのもとに来なさい
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」



ちょこっと解説

洗礼者ヨハネはイエスが本当に旧約聖書に預言された救い主メシアなのかと疑い、使者を出しています。
それはおそらく、ヨハネが想像していた以上の賛否両論がイエスに対して起こっていたからでしょう。
特に、当時のユダヤ社会において社会的地位と権力を持っている人々に対して、ことごとく鋭い批判を行い、多くの人々が目もむけなかった罪人や病人たちに関わり、弟子としていたからです。
後の弟子たちもそうであったように、救い主メシアとは旧約聖書の文脈ではローマ帝国の支配からユダヤ人を解放してくれる軍事的なリーダーとして受け取られる面もあったため、それに似つかないイエスの姿や弟子たちの面子が揃っていたことは、9章のファリサイ派との問答(9・11~)からも明らかでした。

ここでイエスが「つまずかない人は幸い(6節)」と言っているのは、ヨハネの不信仰だけを糾弾するものではありません。
「今の時代を何にたとえたらよいか(16節)」と続けて語られていく通り、人々はその真意をはかろうとしないで、勝手な解釈や卑下をするものです。
ましてや自分に対してすぐに役に立つようなものでないなら、あるいは関係がないと思うようなことには、精査もしない誤解を平気で公言してしまうものなのです。

しかし、イエスは正しさを保ち、的外れな解釈一つひとつにむきになって弁解するようなことはしませんでした。
なぜなら本当に正しいことは、いずれ証明されるからです(19節)。
だからこそ「耳のある者は聞きなさい。(15節)」と言われます。

当時の人々にとってイエスの登場と教えは劇的なものでした。そして、なぜそのようなことをするのかという問いかけを引き起こすものでもありました。
ほとんどすべての人々が「逆らってはならない、反論してはいけない」と思っていたであろう世の権力者・教師たちに、聖書の真意を説き明かし、人々が心の底では、これではいけない、と思っていた欺瞞を打ち砕かれました。
それはイエスの先駆者であるヨハネでさえ困惑するほどでした。

神様の働きとは、時にこのような形で私たちにも見えることがあります。不効率で、不合理で、意味がない、すぐに理解しがたいようなことの中に、神様の御心が隠されていることがあるのです。
だからこそ、私たちはただ今の瞬間だけで神様の心を見極めようとするのではなく、イエスが引き起こした問いのように、神様の問いかけを長い時間をかけて引き受けていく勇気が必要かもしれません。
確かなことは、神様は私たちを苦しめるよりも助け、迷わせるのではなく導き、見捨てるように見えても確かに愛しておられるということです。
私たちがそのように神様を信頼することによって、初めて神様が見つめておられる「正しさ」を私たちも見出すことができるようになるのです。

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