「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
──マタイによる福音書5:21-2
『デスノート』という漫画が流行ったことがありました。死神が落としたノートに、その人の顔を思い浮かべながら名前を書くと、その人が心臓発作で死ぬ、という「デスノート」を手に入れた主人公が、悪人を裁いていこうとするというストーリーの漫画です。
この主人公を藤原竜也が演じた実写映画も一時期話題になったものですが、実は私もこれを見て、一時期自分用のデスノートを作ったことがあります。
デスノートと言っても、殺したい相手の名前を書くノートではありません。
自分が嫌だったこと、誰かの悪口、誰にも言えないようなことをとにかく吐き出すための場所として、そういうノートを作った、ということです。
SNSが発達した今、裏垢みたいな形で、誰にも見られないように鍵をかけて、そこに吐き出すという人も少なくないでしょう。そういう類のものです。
そうやって一度、自分の中にある薄暗い気持ち、誰かに対する悪口などを吐き出してしまうことで、自分の心を整理して、誰かに関わるときには優しい気持ち、優しい言葉を使えるようにしよう、という目的で作ったノートだったのです。
でも、そのノートを一か月ほど使っていると、効果が表れてきました。でも自分が求めていた結果とは全く真逆だったのです。
嫌なことを吐き出してすっきり出来ると思いきや、全くそんなことはありませんでした。
それどころか、イライラとした気持ち、誰かを悪く言う言葉を、明確に文字にしてノートに書き連ねていくうちに、ノートを書いていないとき、自分が誰かと関わるときにさえ、そういう誰かを傷つける言葉ばかりが頭に浮かぶようになってしまったのです。
だからこそイエス・キリストは、今日の聖書の言葉を人々に語ったのかもしれません。
聖書の律法には殺すなと書いてあるけれども、あなたがたは誰かに腹を立てた時点で、神様から罰を受けるんだよ、と。
このようなイエスの言葉を聞いたら、きっと私たちはこう思うでしょう。
「そんなことできるはずがない、誰だって腹を立てたり、あなたはバカだと悪口を言うことだってある。言わないとしても心で思っただけで地獄に落ちるほどの罪に問われるだなんて、そんな教えを守ることなんて不可能だ」と。
私もその通りだと思います。でも、だからこそイエスはあえて厳しく、私たちのうちにある悪い心──罪を鋭く見抜いて、明るみに出されたのだと思います。
たとえ言葉にしなくても、誰かを憎み、恨み、誰かを傷つけたいという思いを抱えているだけで、私たちは自然とそのような人間に近づいていってしまう。
そのような心を私たちのだれもが持っていることを、忘れてはならないと、イエスは私たちに呼びかけているのです。
私たち人間は互いに影響しあう生き物です。
だからこそ、誰かを傷つける言葉が飛び交う中にいれば、私たち自身も影響を受けて、染まっていってしまうものです。
逆に、私たちの言葉が誰かに影響を与えることがあるかもしれません。
私たちが心に思う言葉は、誰かにかける言葉は、相手にとって、相手が心地よいと感じる言葉になっているでしょうか?
もしそうでないとすれば、あなたはどのような言葉をかけられる人間になりたいでしょうか?
今一度立ち止まり、今日という日の始まりに、自分を振り返ってみたいと思います。