マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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マタイ福音書22章本文
◆「婚宴」のたとえ
22:1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。
22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
◆皇帝への税金
22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22:22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
◆復活についての問答
22:23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
22:27 最後にその女も死にました。
22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
◆最も重要な掟
22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
◆ダビデの子についての問答
22:41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
22:42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
22:43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
22:44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
22:46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。
ちょこっと解説
ファリサイ派の人々がイエスを捕まえようと憤りに満ち満ちている中で、イエスは婚宴のたとえをもって、彼らが自ら神様からの救いの招きを断った、という話をしていきます。
ファリサイ派の人々は律法の専門家ですから、誰よりも深く聖書を理解し、それゆえ誰よりも神様の御心を理解している人々のはずでした。
そして彼ら自身は確かにそのような自負をもって、生きていたのです。
しかし、実際に彼らがやっていたのは、神様が律法を通してユダヤの人々に求めた関係性──天の国における関係性とは懸け離れたものだったのです。
それは神様が彼らをそのように遠ざけたのではなく、むしろ彼らを天の国の救い(特に神と人との良き関係性)へと一番に迎え入れようと、神様のほうが期待していた人々であったはずだったと、イエスは彼らに神様の思いを伝えようとされるのです。
まさに神様から遣わされた使いの者、それがイエスであるにも関わらず、その言葉を受け取るどころか自分のことを優先する──自らの権力と地位の保持のために、神様の言葉と思いの優先順位を池に落としたのでした。
だからこそ神様は、「見かけた者はだれでも(9節)」招こうとされます。
ここでの悪い者と言われているのは、律法を違反しているとファリサイ派の人々に言われていた徴税人や罪人たち、そして律法を知らない異邦人たちを指しているのでしょう。
品行方正でもなく、神様が望まれている生き方から今は離れているような人々でさえ、神様(イエス)の招きに応じるなら誰でも歓迎するのです。
その人のこれまでの悪を全てなかったかのように捉えてくださり、親しい間柄にしか開かれていない関係性を持つ相手として迎えてくださる、という救いを与えられるのです。
そのなかで「礼服を着ていない者」について触れられています。
当時の婚礼の宴会では、そこで着る服はホストの側が用意をするのが一般的でした。
つまりこの者は、その場にいるために神様から差し出された関係性とその思いを拒みながら、ただ自分が楽しむためだけに、神から一方的に利益を搾取する傲慢な者であった、ということです。
人間関係において、どちらかが与え、どちらかが受け続ける関係性は歪んでいます。
神様が私たちに求めることはただ一つ、イエスが示されたように、神様が愛ある方であることを信じ、それを受け止めて悔い改めるということです。
神様は私たちがこれ以上誰かから一方的に奪われたり、奪ったりするような罪を重ねるために、救いの大盤振る舞いをしたのではありません。
自ら悔い改めてすべての人との関係性を良く保つ生き方──天の国の関係性へと少しでも近づけるように、先んじてその救いと恵みの喜びを約束として私たちに示してくださっているのです。
律法学者にはファリサイ派の他に、サドカイ派やヘロデ派という人々もいました。
サドカイ派は主に貴族たちが多く、聖書の律法(創世記〜申命記までの5冊)は重要視しますが、預言(イザヤ書、エレミヤ書など)は軽視していた人々です。
旧約聖書における死者の復活信仰はこの預言に書かれた出来事であるため、彼らは「もし復活があるならおかしなことになるだろうシチュエーション」である「7人と結婚した女性」の例を出しているのです。
イエスはここで、復活とは「天使のようになる」と表現しています。
これは個人が個人でなくなる、ということではありません。
この世のあらゆる関係性は、しがらみとセットです。神さまのみ心に完全に従う御使いである天使として生きることになれば、そのようなしがらみ自体が起こることはありません。このような回答は実は「天の国のたとえ」のひとつでもあるため、ここに置かれているのです。
また、ユダヤ人たちは自らの神が他宗教の神ではないことを表すために「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と旧約聖書の神様のことを呼んでいました。
このアブラハム、イサク、ヤコブはユダヤ人の歴史が始まった最初の親子三代に当たる人物です。それゆえ、その子孫であるということ自体が、ユダヤ人にとってのアイデンティティでありました。
彼らは何千年も前に天に召されているわけですが、それでもこのように呼ばれているという意味をイエスは深堀りし、この世において死者だと思われていても、いのちの与え主である神様にとっては、いつでもすべての人を生かすことができるお方であるということ、ユダヤ人の父祖である彼らがそうなのだから、ユダヤ人である私たちも当然そうである、と説いたのでした。
イエスはここで律法の中で最も重要な掟について問われます。
最も重要な掟、と言われると一つだけを選びたくなるものですが、どれか一つを選ぶということは、その掟に含まれていない内容の掟は重要ではない、軽視している、という揚げ足取りが可能です。
そのため律法の専門家は「イエスを試そうとして」尋ねているのですが、ここでイエスは「神様を愛すること」「人を愛すること」の二つの箇所を一つの掟として答えています。
一見すると矛盾した答えに聞こえるかもしれませんが、「愛する」を「大切にする」に読み替えてみると、そのつながりが見えてきます。
神様という相手を心から大切にする、ということは、神様が大切にしているものを自分も大切にする、ということに繋がります。
神様は悪人でさえ天の国に招かれるほどすべての人への愛を持っておられる方ですから、そのように「隣人を自分のように愛する(大切にする)」ことが、そこに結びつくわけです。
これは最終的に、最後の晩餐の際に弟子たちに命じられた「新しい掟」──「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ福音書13:34)」として、神様を信じ愛するすべての人にとっての最も重要な判断基準になる掟なのです。