あなたの明日を台無しにしないように


怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。

──エフェソの信徒への手紙4:26

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ある時このように言われました。
「キリスト教を信じている人(クリスチャン)は優しい人ばかりですね。怒るところなんて見たことがありません。どうしたら怒らずに過ごせるでしょうか?」

実は、キリスト教は怒ること自体を否定しているわけではありません。
怒りに任せて動くと、必然的に聖書が教えている生き方から離れてしまうことになりかねないからこそ、避けるべきだと教えているのです。
この、なりかねないということと、必ずそうなる、という違いが大事なところです。
エフェソの信徒への手紙の中でパウロも、「怒ること」と「罪を犯すこと」を分けて考えているからです。

実は、神様でさえ怒ります。特に旧約聖書の神様はそのように捉えられることが多いでしょう。
しかし一方で、愛するからこそわいてくる怒りというものもあるのです。

神様は旧約聖書の中で「わたしは熱情の神である。(出エジプト20:5)」とご自分について言われています。
この「熱情」と訳されている言葉は、相手への強い愛のゆえに嫉妬する、という意味を持つ言葉です。
嫉妬も、キリスト教のイメージとは少し離れている言葉に思えるかもしれませんが、神様ご自身がそのようなお方であることを聖書ははっきりと記すのです。
神様は人間のことを心の底から愛している。
だから、嫉妬のような思いも抱くし、何度教えても御心に適った生き方ができない人間に対して、怒りもする。
しかしその怒りのゆえに、自分勝手な振る舞いをしたり、相手に自分の気持ちを押し付けたり、何かを強制したりすることを正当化してはならない、と聖書は言うのです。

作家であるアーネスト・ヘミングウェイは「毎日が新しい日だ」と言いました。
日が暮れ、日が昇る時、本当は全く新しい一日が始まっているのに、私たちの心はそんなにすっぱりと切り替えられない、という経験をした人も多いでしょう。
前日のことが頭から離れなかったり、今日起きた嫌なことが、明日明後日も永遠に続いていくような、そんな暗鬱とした気持ちになることもある。

しかし聖書は、日が暮れるまで、つまり当時のユダヤ教では一日が終わる時には、その怒りを整理しておくことが大事だと教えます。
それは、せっかく新しい一日が始まろうとしている時に、過去のこと、怒りに囚われた状態から始めてしまえば、その日は絶対に良い日にはならないからです。
怒っている人が隣にいるだけで、周りの人々は気を遣いますし、少なくとも気分良く過ごすことはできないでしょう。怒った口調で言葉を口にすれば、言っていることは普通のことでも、何も悪くない人を傷つけてしまうかもしれない。
それこそ、私たちが犯すべきではない罪の行いなのです。

私たちは怒っていいし、時には怒りを抱える事もあります。キリスト教はそんなあなたの気持ちを決して否定しません。
しかしその怒りによって、あなたの一日が台無しになること、周りの人々との関係が悪くなることがないようにと願って、今日の聖書の言葉は語られています。
「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」
この聖句は、「あなたが、今日をすがすがしく笑顔で過ごせますように」という、神様から私たちへの祈りと言ってもよいでしょう。
そのような祈りによって心を整えられた「新しい日」としての今日を過ごしていってほしいと思います。

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